連載:プロ野球 あの人はいま

神宮を沸かせたドラ1左腕・加藤幹典 人生を変えたプロ1年目の「違和感」

前田恵

順調にスターへの階段を昇ってきた加藤幹典がプロで味わった挫折。その挫折があったからこそ、今の充実した日々がある 【写真は共同】

 早稲田大・斎藤佑樹(現・北海道日本ハム)の話題一色となった2007年の東京六大学。そこに150キロの速球と伝家の宝刀・スライダーを武器にバッタバッタと三振を奪う、実力派左腕がいた。慶応大のエース・加藤幹典。『大学ナンバーワン左腕』の称号を得て、主戦場・神宮球場を本拠地とする東京ヤクルトスワローズに入団した。

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人との出会いに恵まれた野球人生

高校時代、プロではなく大学進学を選んだ加藤。慶応大での4年間で多くのことを学んだという 【写真は共同】

 人生には必ずいくつか、分岐点があるものだ。その選択の結果が、今の自分。

「私の場合、面白いことにその分岐点で必ず誰かに手を差し伸べられ、導いていただいているんです」と加藤は言う。

 まず、高校進学時。神奈川県内の強豪私学から何校か、誘いがあった。そこへ兄の進学した県立川和高・佐藤雄彦監督がやってきて、「私が育てますから、幹典君に来てほしい」と言ったのだ。『打倒・私学』を掲げた川和高でその後、加藤は東海大相模高を破るほどの力をつけ、内竜也(川崎工〜千葉ロッテ)、吉田幸央(城郷高〜ヤクルト)と並び『神奈川公立三羽ガラス』と呼ばれることになる。

 大学進学のときもそうだった。内、吉田は高卒でのプロ入りを選び、加藤の元にもある球団から話があった。そのとき加藤が投げる試合を見に来たのが、慶応大・鬼嶋一司監督(当時)。加藤は鬼嶋監督の前で滅多打ちにされたのだが、「ウチを受けてみなさい」と声を掛けられた。そこで一念発起し、小論文の勉強。AO入試を突破し慶大進学、野球部に入部した。

「大学野球を経験して、野球に対する考え方、取り組み方が大きく変わりました。野球の基礎から練習の仕方、技術、戦術、すべて一から勉強することができました。上のレベルを目指すのなら、ここまでやらなければいけないということを教えてくれたのが、大学野球でしたね」

 1年秋から投手陣の柱として5勝を挙げ、チームの優勝に貢献。最優秀防御率とベストナインを受賞した。4年間でリーグ通算64試合に登板し、防御率2.14で21世紀初の30勝投手。371奪三振は慶大野球部史上最多だった。ドラフトでは大場翔太(東洋大〜福岡ソフトバンクほか)、長谷部康平(愛知工大〜東北楽天)と共に『大学BIG3』として注目を浴びた。

「4年生になってプロが目の前に見えてきたとき、“ここまで来たら、ドラフト1位を目指そう”と思いました。やるからには、一番になりたい。実際自信もあったし、大学生で一番の実力をもって、ドラフト1位でプロに入りたいと思いました」

 2007年11月の大学・社会人ドラフト会議で、ヤクルトが1巡目指名。当日、高田繁新監督(当時)が指名のあいさつに訪れた。順風満帆な野球人生かのように、誰もが思ったはずだ。

後の人生を左右することになる肩の「違和感」

「違和感」を感じた時点で対処していれば違った野球人生になっていたかもしれないと加藤は振り返る 【撮影:スリーライト】

 ところが――。

“その兆候”は、ルーキーイヤーの一軍キャンプにあった。オープン戦から開幕を見越し、どこにピークを持っていくか逆算しながら調整していたはずだった。

「こういう調整をすれば、このぐらいの時期に仕上がってくるというのは、肌感で分かっているものです。ところが自分が思っていたよりスピードは出ないし、調子も上がらない。“この違和感はなんだろう”というのが最初でした」

 何かがおかしい。そうチームドクターに相談したが、「精密検査を受けて二軍で調整するか、このまま一軍で練習を続けるか」その選択は、加藤自身に委ねられた。実際、肩が痛いわけでもない。ましてやルーキーの身。加藤はそのまま一軍に残った。

 1年目、148キロを計測した球速は2年目、141、142キロに。3年目には140キロを切った。その3年目、肩を痛めて検査し、そこで『肩甲上神経麻痺』と診断された。本来なら手術が必要な症状。しかし、それが3年前からのものなら、もはや手術しても治る確率は5パーセント以下と宣告された。そして手術をすれば、ヤクルトとの契約はそこで終わる、と。

「診断が下ったときは、妙に自分の中で納得感があったというか……。“だから調子が上がってこなかったんだな”と、ようやく腑に落ちました。その前から“棘下筋の萎縮が出ているから肩のトレーニングをしっかりしないといけないよ”とはずっと言われていて、その通りトレーニングをしても治らない。不思議に思っていたんです」

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著者プロフィール

1963年、兵庫県神戸市生まれ。上智大学在学中の85、86年、川崎球場でグラウンドガールを務める。卒業後、ベースボール・マガジン社で野球誌編集記者。91年シーズン限りで退社し、フリーライターに。野球、サッカーなど各種スポーツのほか、旅行、教育、犬関係も執筆。著書に『母たちのプロ野球』(中央公論新社)、『野球酒場』(ベースボール・マガジン社)ほか。編集協力に野村克也著『野村克也からの手紙』(ベースボール・マガジン社)ほか。豪州プロ野球リーグABLの取材歴は20年を超え、昨季よりABL公認でABL Japan公式サイト(http://abl-japan.com)を運営中。

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