阪神の暗黒時代に輝いた守護神・田村勤 最後は投げられず、極限状態だった左腕
2年目から左ひじは悲鳴を上げていた
2年目中盤以降は左ひじ痛に悩まされた田村(写真左)。それでも登板を重ねた結果、現役終盤は「痛くないところがない」状態に陥った 【写真は共同】
「中継ぎは早い時は初回から肩を作ります。実は社会人を含めたアマチュア時代に自分はケガをしたことがなくて、当時の左ひじの痛みはどうすればいいのか分からず、ケアの仕方も分からずに何もできなかったんです。今思えば中継ぎ時代のひじへの負担がここにきて現れたのかもしれません」
投げていればそのうち何とかなるだろう――。できるだけ気にしないように左腕を振ったが、痛みは日に日にひどくなった。2年目はオールスターに選出されていたが、やむなく辞退。シーズン後半は治すことに専念したが、そもそもひじがどんな状況になっているのか分からなかった。
「手術をした方がいいのか、しなくても大丈夫なのか。ただ、手術に踏み切ったとしても、リハビリをしても再び痛める選手も見てきたので、なかなか決心できなかったですね」
メスを入れることを避けるために、あらゆる治療に走った。3年目のシーズンはオールスター前に何とか復帰でき、2年目の14セーブを超える22セーブをマーク。いよいよ不動の守護神として地位を確立させる時が来たかと思ったが、いつ再発するか分からないひじ痛への不安と常に隣り合わせだった。そのうちひじをかばうことで肩にも痛みが走るようになった。7年目の97年は自己最多に並ぶ50試合に登板するも、最後は「痛くないところがないくらい」の状態だったという。
2001年からはオリックスに移籍し、1年目こそ39試合に登板(0勝1敗0セーブ)したが、2年目になるとボールが投げられないほどの極限状態を迎えていた。2年間在籍したオリックスを自由契約となった後は、トライアウトを受験するつもりだったが、投げることができないままユニホームを脱いだ。
「本当はまだ現役としてチャレンジしたかったのですが……」
再び挑戦する場にすら立てず、志半ばのまま戦いの場から降りることになった。
(企画構成:株式会社スリーライト)
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田村勤(たむら・つとむ)
【撮影:スリーライト】