連載:プロ野球 あの人はいま

阪神の暗黒時代に輝いた守護神・田村勤 最後は投げられず、極限状態だった左腕

沢井史

2年目から左ひじは悲鳴を上げていた

2年目中盤以降は左ひじ痛に悩まされた田村(写真左)。それでも登板を重ねた結果、現役終盤は「痛くないところがない」状態に陥った 【写真は共同】

 1年目のシーズンが折り返しにさしかかった頃、首脳陣から抑えの練習をすることを告げられた。中継ぎはどんな状況でも左打者に合わせて準備しなくてはならず、「抑えの方が精神的にも肉体的にも楽でした」と田村。中継ぎの場合は展開次第では初回にマウンドに立つことがあるが、抑えは同点や1点リードなど僅差の場面とは言っても終盤がほとんど。4、5回くらいから肩を作って、7、8、9回に登板というのが日常だ。2年目になるとオープン戦から抑えとしてフル回転したが、シーズン中盤以降に思わぬ敵が田村を苦しめることになった。左ひじ痛である。

「中継ぎは早い時は初回から肩を作ります。実は社会人を含めたアマチュア時代に自分はケガをしたことがなくて、当時の左ひじの痛みはどうすればいいのか分からず、ケアの仕方も分からずに何もできなかったんです。今思えば中継ぎ時代のひじへの負担がここにきて現れたのかもしれません」

 投げていればそのうち何とかなるだろう――。できるだけ気にしないように左腕を振ったが、痛みは日に日にひどくなった。2年目はオールスターに選出されていたが、やむなく辞退。シーズン後半は治すことに専念したが、そもそもひじがどんな状況になっているのか分からなかった。

「手術をした方がいいのか、しなくても大丈夫なのか。ただ、手術に踏み切ったとしても、リハビリをしても再び痛める選手も見てきたので、なかなか決心できなかったですね」

 メスを入れることを避けるために、あらゆる治療に走った。3年目のシーズンはオールスター前に何とか復帰でき、2年目の14セーブを超える22セーブをマーク。いよいよ不動の守護神として地位を確立させる時が来たかと思ったが、いつ再発するか分からないひじ痛への不安と常に隣り合わせだった。そのうちひじをかばうことで肩にも痛みが走るようになった。7年目の97年は自己最多に並ぶ50試合に登板するも、最後は「痛くないところがないくらい」の状態だったという。

 2001年からはオリックスに移籍し、1年目こそ39試合に登板(0勝1敗0セーブ)したが、2年目になるとボールが投げられないほどの極限状態を迎えていた。2年間在籍したオリックスを自由契約となった後は、トライアウトを受験するつもりだったが、投げることができないままユニホームを脱いだ。

「本当はまだ現役としてチャレンジしたかったのですが……」

 再び挑戦する場にすら立てず、志半ばのまま戦いの場から降りることになった。

(企画構成:株式会社スリーライト)

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田村勤(たむら・つとむ)

【撮影:スリーライト】

 1965年8月18日生まれ。静岡県出身。島田高から駒澤大に入学。東都大学リーグでは通算29試合に登板。卒業後は社会人の本田技研和光に入社し、1990年、ドラフト4位で阪神に入団。プロ1年目から中継ぎ、抑えとして50試合に登板、翌年からは守護神として活躍。その後、肩・ひじの故障に悩ませられるも、1993年には22セーブを挙げ、当時の球団記録である10連続セーブも達成した。2001年にオリックスへ移籍し、その年は39試合に登板したが、翌2002年は3試合に留まり、同年に引退。プロ通算12年間で287試合に登板、13勝12敗54セーブの成績を残した。05年に兵庫県西宮市に田村整骨院を開業。現在、金沢龍谷高(石川県)、藤枝明誠高(静岡県)の投手コーチも務める。

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著者プロフィール

大阪市在住。『報知高校野球』をはじめ『ホームラン』『ベースボールマガジン』などに寄稿。西日本、北信越を中心に取材活動を続けている。

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