連載:プロ野球 あの人はいま

阪神の暗黒時代に輝いた守護神・田村勤 最後は投げられず、極限状態だった左腕

沢井史

「暗黒期」の中にいた90年代の阪神タイガース。それでも田村勤は守護神として、毎日のようにマウンドへ上がり続けた 【写真提供:田村勤】

 1990年代の阪神と言えば、毎年のように最下位争いを繰り広げていた、いわゆる「暗黒時代」だった。だが、その時代を明るく照らしていたのが背番号36の守護神・田村勤。91年から阪神タイガースの一員となり、マウンドでは表情を崩さずに淡々と投げ続け、ピンチを切り抜けると雄叫び(おたけび)をあげる。笑顔は決して見せることのないクールなマウンド姿は、見る者の目を虜にした。だがその一方では、常にケガと戦いながら歩んだプロ生活11年間でもあった。

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1年目から頭角を現した「たむじい」

「あの頃は、たむじい、たむじいって呼んでもらっていてね。ファンの子どもさんからもそう言われるから、せめて“さん”はつけてよって言ったら、“たむじいさん”って(笑)。(当時活躍していた)亀山(努)や新庄(剛志)からも“たむじいさん”って言われて。“さん”をつけてもらっているのに、なぜかいい気がしなかったのを覚えています」

 当時を懐かしげに振り返る田村の表情が、そう言ってふとほぐれた。マウンドでは寡黙な表情で迎える打者を淡々と打ち取り続けた背番号36。切れ味の鋭い直球で空振りを奪い、数々のピンチを封じ込めた。だが、そんな孤高の左腕は、今では白衣が“ユニホーム”となり、選手たちを後ろから眺める立場になった。

 生粋の阪神ファンなら「たむじい」というニックネームにピンと来るだろう。当時、低迷していた阪神に90年ドラフト4位で入団。90年代唯一のAクラス入りを果たした92年は5勝1敗14セーブをマークし、翌年も22セーブを挙げるなど、当時の虎の守護神としてその名をとどろかせた。

 駒澤大から本田技研和光(現・Honda)を経て、入団時に25歳だった田村は、1年目から結果を出すためにキャンプインからアピールを続けたが、オーバーワークがたたって開始早々に離脱。開幕一軍を目標に掲げていたが、いきなり二軍暮らしとなり、不本意な1年目のスタートを迎えることに。だが、シーズンが開幕すると、4月中旬には早くも一軍から招集がかかった。

プロ初登板で犯した「コーチへの反抗」

チームメイトから「たむじいさん」と呼ばれ、親しまれた当時を振り返る 【撮影:スリーライト】

 初登板は4月16日の広島戦(広島市民球場)。迎える打者は小早川毅彦だった。だが、ここでいきなりプロでの洗礼を浴びることになった。

「2球目に投げたカーブをホームランにされて、確か2点を取られたんです。次の打者にも内野安打を打たれてコーチがマウンドに来たんですけれど、自分がコーチにボールを渡さなかったんですよ。簡単にボールを渡してしまうと、もう一軍で投げさせてもらえないんじゃないか。マウンドに立たせてもらえないんじゃないかという気持ちが働いて、渡せなかったんです。ルーキーの初登板で、コーチがマウンドにいるのにボールを渡さないなんて、大石(清)投手コーチからすれば『何だコイツは』となりますよね。3度くらい渡せと言われてようやく渡したんですけれど、帰りのバスで大石コーチに『メシ食ったら後で部屋に来い』と言われました」

 指示に従わなかったことで自分の首を絞めてしまった……。「えらいことをしてしまった」と田村の表情は青ざめていた。約束通り、食事後に部屋に行くと、大石コーチは目を合わすなりニコッと笑みをこぼしたという。

「『お前、あの場面で投げたかったんか』と言われて。即答で『ハイ』と返事をしたら『分かった。明日も投げさせたるわ』と言われて。二軍に落とされると思っていたので、あの時は少しホッとしましたね」

 翌日の広島戦でも同じように小早川を迎えた場面でマウンドに上がり、今度は外野フライに打ち取った。その後1点を取られたが、大石コーチになぜか『ナイスピッチング』と言われたことが今でも耳から離れない。以降、小早川の打席のたびにマウンドに立つことが多かったのは、何かの偶然だったのだろうか。

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著者プロフィール

大阪市在住。『報知高校野球』をはじめ『ホームラン』『ベースボールマガジン』などに寄稿。西日本、北信越を中心に取材活動を続けている。

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