日本バスケ改革者たちが見たW杯と未来 「日常を世界基準に」する次の手は?
改革の意思が反映された技術委員長の人選
W杯から帰国した日本代表に、温かい声援が送られた。ファンも中長期的な改革を前向きに受け入れているのだろう 【写真は共同】
サッカーのW杯では、帰国した選手が空港で水を浴びせられた残念な例もある。しかし今回は中国から帰国した指揮官や選手への叱責(しっせき)、罵倒に類する言葉がほとんど聞こえてこない。それはファンが代表の現状や中長期的な取り組みを前向きに受け入れているからだろう。チームがフリオ・ラマスヘッドコーチ(HC)就任後の2年間で成長を遂げ、アジアの壁を乗り越えた喜びもおそらくまだ残っている。
日本バスケットボール協会(JBA)の東野智弥技術委員長は大会をこう総括していた。
「予選を勝ち抜き上昇気流に乗って、大きな期待を背負ったW杯でした。しかしながら結果は結果で、今のわれわれの実力だと思っています。選手、スタッフの一人ひとりがこれを糧とし、経験不足の状態を変化させていかなければいけない。私自身は東京2020五輪直前のこの大会で世界の洗礼を受けて、ある意味で良かったのかなと考えています。これからです」
東野技術委員長の就任は2016年5月。浜松・東三河フェニックス(現・三遠ネオフェニックス)のHCを務めていた彼に、JBAは白羽の矢を立てた。東京大会まで1500日を少し切ったタイミングだった。
14年秋に国際バスケットボール連盟(FIBA)から処分を受けたJBAが求められた改革は、大きく分けてトップリーグ、協会のガバナンス、強化の3つ。20年を控えて、男子の代表は特にテコ入れが急務だった。Bリーグの大河正明チェアマンは当時JBAの事務総長も兼任しており、東野に委ねる決断を下した当事者だ。
「川淵(三郎会長・当時)さんとも『今日明日でできる話じゃないね』と話しながら、サッカーで言う技術委員長に当たる人を選んでこないと、始まらないぞとなった。ということで16年3月、渋谷の喫茶店で1回会ったんです。熱い思いを聞いて、この方に委ねようとなった。豊橋に行ってクラブの浜武恭生社長(当時)に仁義を切り、最後は川淵さんが親会社のオーエスジーの大澤輝秀会長(故人)に直電をして、成立しました」
他にも強化責任者の地位に意欲を示している大物がいたという。東野はプレーヤーとして無名で、年齢も当時は45歳。彼の登用は従来の延長線上から離れる、改革の意思が反映されていた。東野の国際的な人脈、ビジョンと熱意に協会は懸けた。
協会の強化で代表も強くなる
境田正樹弁護士(左)は、川淵(中央)、大河(右)とともに日本バスケ改革時のキーマンだった 【写真:アフロスポーツ】
「男子バスケは五輪に40年以上出ていない。川淵さんは絶対に代表が強くならなければダメという信念をお持ちです。よく『カーリングは競技人口が少なくても注目されるのは五輪に出ているからだ』と言っていますね。ところが最初はアジアでも全然勝てなくて、簡単にはいかないなと思っていました」
16年7月に開催されたリオデジャネイロ五輪最終予選はラトビア、チェコに完敗。17年6月に開催された東アジア選手権もチャイニーズ・タイペイに敗れて3位にとどまった。同年7月にラマスHCが来日したものの、11月から開催されたW杯1次予選は4連敗スタート。野心的な強化プランを実行しても、結果はすぐについてこなかった。
しかし18年6月29日のオーストラリア戦から、チームは浮上に成功。8連勝で本大会の出場権を得た。境田は一つの背景を口にする。
「この4年間で協会の予算が14億から38億まで増えました。強化予算も2.5億だったのが、今は7.3億円。僕は15年に協会の役員となりましたが、それ以降、さまざまな改革が行われ、スポンサー収入も大きく増えました。だからこそラマスのような一流のHC、スタッフを招聘(しょうへい)できた。代表が強くなるには、そういった協会の体制強化も重要だと思うんです」