連載:あと一歩!逃し続けた甲子園 47都道府県の悲願校・涙の物語

全国の系列13校の中で唯一の甲子園未出場 東海大高輪台の夢はいつ叶う?

田澤健一郎

2017年夏、東海大高輪台はエース宮路を擁して東東京大会決勝に進出。しかし、あと一歩及ばず 【写真:日刊スポーツ/アフロ】

 何事も「仲間の中で自分だけが成し遂げていないことがある」というのは、肩身の狭いものだ。ましてや、その課題のクリアに何度も失敗していたりすれば、悔しさもひとしお。悲願校には、そういったタイプの高校もある。たとえば同じ大学のグループ校で唯一、甲子園出場を果たしていない、というケースだ。その高校は、首都・東京のど真ん中にあった。

「逆・最後の砦」状態…肩身が狭そう

「日大」と「東海大」は、いずれも日本のマンモス私大だが、高校野球ファンにとっては、大学以上になじみのある響きだ。付属校や準付属校、提携校など、校名に「日大」「東海大」の名が付く高校は、甲子園常連校が多いのだから。

 ちなみに2018年夏の甲子園出場校のうち、「日大」の関係校は3校、「東海大」の関係校は1校。2000年以降の18年間、夏の甲子園で両校の関係校が1校も甲子園に出場しなかったのは2016年夏の1度だけだ。これだけ甲子園に定着している「日大」「東海大」の関係校だが、それでもまだ、甲子園未到の関係校もある。

「日大」のほうであれば岩瀬日大(茨城)、千葉日大一(千葉)、日大習志野(千葉)、日大高(神奈川)と、複数存在している。「東海大」に比べると、関係校が多いので、なかなか「野球部のある全関係校の甲子園出場」は達成できるものではない。ちなみに、2019年度は日出(東東京)が日大の準付属校となり、目黒日大となる予定である。
 一方、「東海大」は野球部のある関係校は全国に13校。うち12校は甲子園出場経験がある……逆に言うと甲子園未経験の関係校は1校しかないという「逆・最後の砦」状態になっている。その1校は、東海大高輪台(東東京)。おせっかいかもしれないが、なんとも肩身が狭そうで気の毒である。

 そんな状況を打ち破り、早くほかの東海大関係校と肩を並べる存在になってほしいという願いを込めて、東海大高輪台も、なかなかの悲願校と呼ばせてもらいたい。

 ただ、東海大高輪台はけっして弱いわけではない。1980年代から東京では有力私学の一角を占めており、むしろ古株の私立有力校といっていいほど。唯一のOBプロ野球選手である小島圭市(元・巨人ほか)は1986年にプロ入り。現状、東海大の関係校で最も新しい甲子園初出場校である東海大市原望洋の台頭よりも先に、有力校化は進んでいた。

悩みが解消した2004年以降は上昇カーブ

 学校が位置するのは港区高輪。都心のど真ん中で、最寄り駅は白金高輪駅だが、校名にもなっている高輪台駅や白金台駅、泉岳寺駅、品川駅なども徒歩圏内とアクセス抜群。1980年代後半のバブル期に開発が進み、当時「ウォーターフロント」と呼ばれた天王洲や芝浦といったエリアに近かったため、メディアに「ウォーターフロントの都会っ子球児」のような文脈で取り上げられたこともあった。大学付属校でこの立地、現在でも生徒集めには苦労しないだろう。

 ただ、一方でそれは、東京、それも都心に位置する高校のほとんどが直面する悩み、練習グラウンド問題にもつながる。地価が高く、そもそも広い土地がほとんど残っていない都心エリアで、専用球場など充実した練習環境を整えるのは難しい。実際、同じように都心のど真ん中に位置する二松学舎大付も、練習グラウンドは千葉県で、選手は授業が終わり次第、千葉へと通っている。

 東海大高輪台も、長くその環境で苦労した。校地に野球ができるスペースのグラウンドはなく、狭く土のない校庭や近隣のグラウンドを利用しての練習。当然、週末は相手校に出向いての練習試合オンリー。ちなみに21世紀枠の代表校選考では「困難な環境を克服して練習に励んだ」といったことも評価になる。そう聞くと、つい離島や過疎地の山間部などを思う浮かべてしまうが、都会には都会でこうした悩みもあるのだ。実際、OBに話を聞くと「当時、校庭には一部、土もあったので、そこをマウンドに見立て、そのとき空いている場所に向かって投本間の距離を測り、ホームベースを置いて投球練習をした」など、涙ぐましい努力の話が出てくる。そういった工夫、頭を使って練習を生み出していく経験は、選手としての成長、チームの力にもなったであろう。

 その悩みが解消したのは2004年。埼玉県さいたま市浦和区に、待望の専用球場も備える学校の総合グラウンドが完成したのだ。もちろん校舎のある高輪からは離れているため、選手たちは授業終了後にバスで移動。渋滞がなくても練習開始まで1時間前後はかかる。それでもグラウンドがなかった時代に比べれば環境は大幅に改善。グラウンドがないことは入学敬遠の理由にもなるだけに、チーム構成にもプラスに働いたはずだ。

 それが追い風になったのか、以降、東海大高輪台の上位進出のペースはアップした。2008年夏には東東京大会で初の決勝進出。関東一に敗れ準優勝に終わったが、その後、2012年春は準優勝、2015年秋はベスト4、2016年の選抜では21世紀枠の都推薦校に選出されている(他の東海大付属校の実績を考えれば、当事者としては複雑だったかもしれないが)。そして2017年夏には2度目の決勝進出。二松学舎大付に1対9で敗れたが、2004年以降の上昇カーブは続いている。指導する宮嶌孝一監督は、グラウンドなき時代のOB。甲子園初出場を決めて、練習場所を求めてさまよった選手たちに歓喜を届け、ほかの東海大関係校に肩を並べる日を期待する。

※本記事は書籍『あと一歩!逃し続けた甲子園 47都道府県の悲願校・涙の物語』(KADOKAWA)からの転載です。掲載内容は発行日(2019年4月19日)当時のものです。
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著者プロフィール

1975年生まれ、山形県出身。高校時代は山形県の鶴岡東(当時は鶴商学園)で、ブルペン捕手や三塁コーチャーを務める。大学卒業後、出版社勤務を経てフリーランスの編集者・ライターに。野球などのスポーツ、住宅、歴史などのジャンルを中心に活動中。共著に『永遠の一球 〜甲子園優勝投手のその後』(河出書房新社)など。

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