「小園海斗」を育んだ親子の絆 アスリートの両親だから伝えられたこと
思いやり、感謝……海斗を作った母の教え
現在ロッテの藤原(写真右)は、ボーイズ時代のチームメイト。高校ではU-18日本代表メンバーとして、世界の強豪と戦った 【写真は共同】
「この高いレベルの中で野球をやりたい」と思いつつも、「宝塚からだとちょっと遠いし、どうしようか……」と悩んでいた海斗に、当時、枚方ボーイズの監督だった鍛治舎巧さん(現・県立岐阜商高監督)から「ここで野球をやったら野球人生が変わるぞ」と声をかけられ、海斗は「やる!」と決めた。
グラウンドまでは車で片道1時間10分の距離。渋滞すると、1時間半を超えることもある。その送迎をするのは母。入団した1日目の野球ノートの1ページ目に“日本一のショート”と書いた海斗とともに、こず江さんも覚悟を決めた。そして、3年間、すべての往復を送迎した。
行きの車の中では寝ていることが多かったそうだが、帰りはよく話をしたという。今日の試合でこうだったとか、あそこではこうしたかったのにどうだとか、誰がどうだったとか……。こず江さんは「大変だったというより、いろんな話ができて楽しかったです」と振り返る。
「野球については何も分からないので指導者に任せっきりでした」というこず江さんだが、挨拶や礼儀について、また、野球に取り組む姿勢などについては、ことあるごとに気付いたことを海斗に伝えていた。
「母からは、小学校のときからずっと、『周りの人に感謝してやっていこうね』とか『一つひとつのプレーにこだわってやろうね』と僕に足りないところをいろいろ言ってもらいました。仕事としてサッカーをやっていた母だからこそ分かることもあったと思うし、言われないと気付けないこともあるので、それを自分に伝えてくれていたのはホントにありがたかった。自分を作ってもらったなと思います」
アスリートだった両親だからこその教えが本当にありがたかった……と小園。プロ野球選手になった今でも両親からの教えが生きている 【写真は共同】
「小さいときからショートをやりたくて……。それ以外のポジションで起用されると態度に出ちゃうこともあったんです。そんなときはかなり厳しく言いましたね。『野球は自分だけでやるんじゃないよね』『試合に出られない選手もいるんだから、そういう仲間の気持ちも考えてプレーしようね』っていうような話ですね」
というのも、こず江さんは高校までは中心選手として活躍できたが、L・リーグに進んでからはスタメンで出られることも少なくなり、試合に出られない悔しさ、遠征があっても連れて行ってもらえず、居残りで練習するつらさも知っていた。母がそういう経験をしていたことも分かっていた海斗は「そやな」と素直に聞き入れるのだ。
こず江さんもそうだが、考志さんも「こうしなさい」などと押し付けるように言うのではない。「こうした方がいいよね」と語りかけて話す両親に、「分かった」とちゃんと聞ける海斗。これは、持って生まれた性格ももちろん、アスリートだった両親を尊敬する海斗と、子どもである海斗を尊重する両親、そこに大きな信頼関係があったからこそのことだろう。
そんな両親のサポートもあり、またレベルの高い指導もあり、グングン成長した海斗は、枚方ボーイズでも主力として活躍し続ける。中学3年生になる春休みに行われたボーイズリーグ春季全国大会で優勝。夏はベスト4、中学硬式野球NO.1を決めるジャイアンツカップでは初戦敗退を喫するも、その後、日本代表に選ばれ、U-15アジアチャレンジマッチへの出場も果たした。
高2でU-18に選出されたが…
高校2年のセンバツ、小園は自らのバッティングでチームをベスト4入りに導く 【写真は共同】
中学3年生の3月末、高校の練習に参加できるギリギリまできっちり自主練習をしていた海斗は、入学早々ベンチ入りし、あっという間にレギュラーに。1年夏の甲子園出場はならなかったが、1年秋の兵庫大会で準優勝、近畿大会でもベスト8入りして翌春の選抜甲子園出場を決める。
初めての甲子園では、1回戦、多治見高戦でのホームランを含む18打数9安打という好成績でベスト4入りに貢献。一躍全国に“小園海斗”の名前をアピールした。
同年夏の兵庫大会では準決勝で敗れ甲子園出場はならなかったが、2年生ながら藤原恭大(大阪桐蔭高)とともにU-18日本代表に選ばれ、カナダで行われたワールドカップに出場する。1学年上の清宮幸太郎(早稲田実高−現・北海道日本ハム)、安田尚憲(履正社高−現・ロッテ)らそうそうたるメンバーの中に混ざってプレーできたことは大きな財産になった。
だが、帰国後、間もなく行われた高校2年生秋の兵庫大会では3回戦で明石商高に1対4で敗戦。翌春の選抜甲子園の道が断たれた。
シーンとした帰りの車内……そこで母・こず江さんが声をかける。
「春まで長いなぁ。どうするー?」
「そやなぁ……夏からずっと戦ってきて、戦い抜く体力が、ないなぁ」
「春までまだ長いからな。何か決めてやっていかな、もったいないなー」
そこで、小園親子はあることを決めた。
アスリートだった母だから言えること。そんな母からの提案だったからこそ「やる」と言った。結果的に、それが“スーパー高校生野手・小園海斗”を生むことになり、1年1カ月後、プロ4球団からドラフト1位指名を受けるほどの選手になっていくのだ。
(企画構成:株式会社スリーライト)
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小園海斗(こぞの・かいと)
【写真:山下隼】