打たれ続けて育った巨人ドラ1・高橋優貴 菅生での日々がなければ今の自分はない
変化は最高学年を迎える冬に
高校生活最後の夏に向けて励む2年冬、「気持ちに変化が生まれた」と当時を振り返る高橋 【写真:山下隼】
若林監督は「9回に1点返して、なおもチャンスという場面がきただけに、8回のあの2点がなかったら試合は分からなかったかなと。ほんと、高橋はここ一番でことごとく打たれるんですよ」と苦笑いで振り返る。
期待を込めてマウンドに送り続ける若林監督の思いになかなか応えられず、「悔しいのと、申し訳ない気持ちでどうしようもなかった」という高橋だが、そこから少しずつ、少しずつ強くなっていく。
「1年秋から2年春にかけての冬は、(両足親指の)巻爪の手術をして出遅れて年末年始の強化練習も満足にできなくて……。中途半端にしかできないまま春夏を迎えてしまったという思いがありました。秋も二松学舎大付高に負けて翌春の選抜甲子園がなくなって、このままじゃダメだと。それまでも一生懸命やってきたつもりではいたんですが、ラスト1回の3年夏の甲子園に向けて、ここからの冬場、自分が頑張らないと、と強く思ったんです」
そんな高橋の気持ちの変化に若林監督はちゃんと気付いていた。
「高橋が変わったといえば、2年から3年になる冬。練習で走る姿、ピッチングに取り組む姿勢、いろいろな場面で目の色が変わっていったことをこっちも感じましたね。まだまだではありましたけど(笑)」
若林監督は、そんな高橋のため、チームのため、新しいトレーニングを加えるなどしてモチベーションを上げていく。高橋は、それにしっかりと応えていった。
うまくいかず泣く高橋、気にかける若林監督
結果を残せずズタズタになった高橋の息を吹き返した若林監督の言葉とは? 【写真:山下隼】
春の東京大会では、初戦となった2回戦の淑徳高戦で4回を投げ被安打1の零封、3回戦の桜美林高戦では先発の小林をリリーフして完封リレー。
だが、4回戦の日大三高戦でも先発すると、高橋は初回、メッタ打ちを食らいKO。代わった小林も打たれ、二人で初回に10失点。0対12、5回コールド負け……。
再び高橋はズタズタになった。
「冬、結構頑張ったつもりだったんですけど、全然ダメで……。まだまだ足りないってことを思い知らされて。試合では打たれるし、押し出しもしちゃうし。若林監督には『高橋のせいで負けるんだ』って言われて、本当にそうだなと。どうしてダメなんだろうって悔しくて、悔しくて……」
ピッチングどころかフィールディングもうまくいかなくなり、夏前の練習時、高橋は抑え切れず、一人、ネット裏にある屋内練習場で泣いていたことがあった。
「今までできていたフィールディングまでできなくなっちゃって、どうにも気持ちが抑えられなくて……。誰にも見つからないところに行ったつもりが、なぜかそこに若林監督が来たんです。『そんなとこで泣いてんのか! なっさけねーなー』って。なんで自分がそこにいることを若林監督が分かったのか、いまだに不思議なんですけど、それだけ監督は僕ら選手たちのことをちゃんと見ていてくれ、気にかけてくれているんだって思いました」
若林監督も振り返る。
「投内連係の練習をしたとき、フィールディングはできない、けん制はできないってなって。そんな練習の後、高橋がいなくなって……。探したら、屋内練習場の暗いところでうなだれて泣いていてね……(笑)。『早く行け!』って言っても動けない(笑)。高橋なりに懸命にやっていたのは分かっていたんですが、うまくいかなくて気持ちを抑えられなかったんでしょう」
そんなどん底に気持ちが落ちた高橋に、若林監督がある言葉をかけ、息を吹き返す。
「自分を使い続けてくれた監督、信じてくれていた監督、野球だけじゃない人としての部分をたくさん教えてくれる監督……夏こそ絶対勝ってこの監督を甲子園に連れて行くんだ」と再び立ち上がった。
そこから高橋の球速は何と、145キロまでアップ。夏の甲子園への階段を一つひとつ上がっていったのだ。
(企画構成:株式会社スリーライト)
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高橋優貴(たかはし・ゆうき)
【写真:山下隼】