名古屋グランパス・丸山祐市が人として成長した大学時代の転機
プロになるつもりはなく明治大学へ
けがもあり、不完全燃焼のまま高校時代を終えた丸山祐市は「やり切りたい」という思いで明治大学へ進学した 【佐野美樹】
あの日、あの場所で――。
自分の意志を再認識した丸山祐市が行動していなければ、名古屋グランパスでプレーすることはなかったのかもしれない。恩師である神川明彦(現・明治大学付属明治高校中学校サッカー部総監督)が、教え子の思いに応えていなければ、丸山が赤いユニフォームに袖を通してピッチに立つこともなかったのかもしれない。
「サッカーをやり切りたかったんですよね」
丸山は、國學院大学久我山高校から明治大学に進学した理由を、そう切り出した。
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2008年に丸山が入学した明治大学のサッカー部は、前年に関東大学1部リーグで優勝するような強豪だった。1学年に20人前後いたという部員はスポーツ推薦がほとんど。指定校推薦で入った丸山は、練習参加から認められて、サッカー部の一員になった数少ない選手だった。当時の監督であり、明治大学を強豪へと押し上げた神川が言う。
「当時はサッカー部の監督であると同時に、私は大学の職員もしていたので、受験のときの案内誘導役をやっていたんです。だから、丸山が受験したときにあいさつしてもらった記憶があります。その後、丸山が練習参加に来たときは、高校時代に負ったけがの影響からか、右膝にテーピングを巻いてプレーしていたのが目を引きましたね。当時は左サイドバック(SB)でしたけど、左利きだし、180センチを越える長身だったので期待していました。ただ、当時の彼はスピードがなかったんですよ。あとは背後が弱いところもありました。でも、きちんとボールは蹴れるし、技術はしっかりしていましたね」
毎週あるメンバー選考が怖かった
名古屋グランパスではCBとして守備を統率しているが、明治大学に入学したころはSBだった 【佐野美樹】
「だから、母親を苦しめましたよね。朝5時くらいにうどんとかを作ってもらって、それを食べてから毎回、練習に行っていたんです。でも、神川監督も6時からの朝練にしか出られないことが多かったので、見てもらえる機会がたくさんあったことは良かったのかなと思います」
部内では一般生と呼ばれる立場でサッカー部に入った丸山だったが、1年時からリーグ戦に出場させてもらえる機会はあった。ただ、当然ながら、練習でのパフォーマンスがふるわなければ、メンバー落ちすることも多かった。
「毎週のようにメンバーが入れ替わるんですけど、その連絡がメールで送られてくるので、それを見るのは結構、怖かったですね。メールを見て、『うわぁ、今週は落ちたかぁ』って(苦笑)」
チームを指揮していた神川が、その真意を教えてくれた。
「選手たちが一生懸命にトレーニングに励んでいることが無駄にならないというか、報われるような仕組みにしていたんですよね。だから、頑張ればトップチームに上がることができますけど、競争に敗れてしまえばセカンドチームに落ちてしまう。とはいえ、決してセカンドチームにいることが悪いというわけではないんです。自分のできないことに目をつぶるのではなく、そこに目を向け、自分が持っている能力を常に出し切ることができるか。セカンドチームであろうとも、全員にその瞬間、その瞬間で役割と責任はありますからね。それを全うできるか。コーチも含めて、自分たち指導者が共有していたのは、この先、どこに行っても通用するサッカー選手であってほしいということ。そのためには、まず人としての部分を大切にしていました」