鶴岡一人様 恩師の貴方へ 『野村克也からの手紙』

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18年前に逝去した鶴岡一人氏。野村氏が恩師に初めて手紙を書いた 【写真は共同】

 指導者のあるべき姿とはなんぞや。パワーハラスメントという言葉がクローズアップされる時代。師と弟子の関係性に視線が注がれている。プロ野球の名監督として、4球団を率いて、多くのトップ選手を育てた野村克也氏にとって、恩師にあたるのが鶴岡一人氏だ。

 南海を11度優勝に導いた名将は、1954年に入団した野村氏を二軍から鍛え、キャンプに抜擢し、一軍で我慢して使いながら四番に育て上げている。ただ、鶴岡氏の現役時代は、気合と根性で野球をする時代。野村氏は、その軍隊野球、精神野球とは最後までなじめなかったという。

 18年前に逝去した恩師に、初めて書く手紙。「感謝と憎しみが五分五分」という文章の奥に、人生の味わいがある。

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監督のさり気ないひと言が、選手の自信とやる気を育てる

 プロ野球界に身を置いて、60年超。やはり最初の恩師は鶴岡さんということになるのでしょう。

 高校時代、プロ野球選手を夢見ていた私でしたが、京都の片田舎ではいくらホームランを打っても、スカウトの姿はなし。どうすればいいのかと思いあぐんでいたとき、アルバイトで配り歩いていた新聞の片隅に、「南海ホークス新人募集」の文字を見つけました。

 野球部の部長先生に相談すると、「お前なら、ひょっとするとひょっとするぞ」と背中を押してくださいました。後に知ったことですが、先生は各球団宛、「わが校には野村克也という優秀な選手がおります……」と手紙をしたため、送ってくださいました。達筆で、心を込めた毛筆の手紙が貴方の心を動かしてくれたのでしょうか。唯一返事を書いてくださったのが、ご縁の第一歩になりました。入団テストの当日、お会いするのを楽しみにしていた鶴岡さんが会場にいらっしゃらなかったのは、至極残念でしたが……。

 二軍時代、鶴岡監督はとても怖い存在でした。たまに監督が二軍の球場に来ると、球場全体に緊張感が走り、皆がピリッとなりました。貴方の口から出るのは、いかにも厳しい軍隊用語ばかり。ミスをした選手に、よく「お前なんか、営倉入りじゃ!」とおっしゃっていましたね。私は最初、営倉とはなんのことか、まったくわかりませんでした。あとから先輩に、「兵隊を入れる牢屋のことだよ」と聞き、驚いたものです。

 私が3年目の春のハワイキャンプは、一生忘れられません。ハワイ旅行など夢のようだった当時、20歳そこそこの私を、ブルペンキャッチャーとしてではありましたが、一軍キャンプに呼んでくださいました。あのときは先輩方が皆、初の海外体験に浮かれ、毎晩のように遊び歩いてばかり。私はマネジャーの道具管理を手伝わなければなりませんでしたし、遊びに行くお金もありませんから、ずっとホテルにいて、時間さえあれば素振りをしていました。それが、幸いしましたね。
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