カイトのために豪華メンバーが集結 オランダが誇る「働き者」が引退試合

中田徹

愛すべき元気印のストライカー

17年に現役を退いたカイトの引退試合が現地時間27日に行われた 【Getty Images】

 ディルク・カイトの引退試合が5月27日(現地時間)、スタディオン・フェイエノールトで行われた。ロナルド・クーマン監督が率いる「チーム・フェイエノールト」が、前半はルート・フリット監督が指揮する「チーム・ディルクの友人」と、後半はルイ・ファン・ハール監督の「チーム・オランイェ」と戦った。

 前半、カイトは「チーム・ディルクの友人」の一員としてプレーした。メンバーには、元リバプールのスティーブン・ジェラード、クレイグ・ベラミー、アンディ・キャロル、ジェイミー・キャラガー、ヨッシ・ベナユンや、フェネルバフチェのボルカン・デミレル、元フェネルバフチェのピエール・ウェボ、ラウール・メイレレスらが名を連ねた(ちなみにジェラードは、後半は「チーム・フェイエノールト」でも出場した)。カイトはこのチームの右ウインガーとしてプレー。マッチアップしたのは、ユトレヒト、フェイエノールトで共に戦ったパスカル・ボスハールトだった。

 今から20年前の1997−98シーズン、ユトレヒトにはマイケル・モルスという絶対的なエースがいたが、カイト(当時17歳)、ボスハールト(同18歳)、パトリック・ズワーンスワイク(同23歳。後に大分トリニータ)の若さもまた魅力となっていた。

このシーズン、カイトはほとんど途中出場だった。それでも、アマチュアのクイック・ボーイズというクラブから移籍してきたばかりの無名ストライカーにとって、28試合出場5ゴールという数字は、今から思えば上々のものだ。ただ、当時の記憶をひも解くと、ものすごい馬力で決定機を作るものの、シュートを力んで外したり、トラップが硬く簡単にボールを失ったりしていた印象が強い。一方で、元気の良さも鮮明に覚えている。

光っていた「ファンクショナルテクニック」

リバプール時代の同僚ジェラードらが友人として参加するなど豪華な引退試合に 【Getty Images】

 2000年代初頭になると、カイト、ボスハールト、ズワーンスワイクの成長と、縦に速いイングランド風味のサッカーの完成によって、ユトレヒトは束の間の黄金期を迎える。リーグ戦では00−01シーズンに5位になり、UEFAカップ(現ヨーロッパリーグ)出場を決めると、運河パレードで町が大騒ぎになった。

 KNVBカップでは01−02シーズンに準優勝、02−03シーズンから2連覇を達成し、ユトレヒトは「カップファイター」として名を轟かせた。

 この間に私のカイトに対する印象も大きく変わっていった。確かに柔らかなテクニックは相変わらずないのだが、仮にボールタッチが大きくなってしまっても、カイトは自分がボールを扱える距離を分かっており、次のプレーに連動することができるようになっていたのだ。後に、カイトが持つような実用的なテクニックを、オランダでは「ファンクショナル(機能)テクニック」と呼ぶということを知る。

 イゴール・グルセビッチという左利きでポストプレーがうまいストライカーと2トップを組んだことで、カイトは得点能力の向上のみならず、味方との連係面でも著しい成長を遂げた。02−03シーズン、リーグ戦で20ゴール6アシストという実績を残し、カイトはフェイエノールトへ巣立っていった。

 翌シーズンにはボスハールトもフェイエノールトへやって来た。フェイエノールトの夏のオーストリア合宿に行くと、宿舎のベランダでカイトとボスハールトが仲良く楽しそうに大声を出しながら歌を歌っていた。あのとき、私はカイトがオランダサッカー界を代表するレジェンドになるとはつゆほども思っていなかった。

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著者プロフィール

1966年生まれ。転勤族だったため、住む先々の土地でサッカーを楽しむことが基本姿勢。86年ワールドカップ(W杯)メキシコ大会を23試合観戦したことでサッカー観を養い、市井(しせい)の立場から“日常の中のサッカー”を語り続けている。W杯やユーロ(欧州選手権)をはじめオランダリーグ、ベルギーリーグ、ドイツ・ブンデスリーガなどを現地取材、リポートしている

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