巨人・杉内、再び陽のあたる場所へ 松坂との投げ合いを目標にもがく日々

週刊ベースボールONLINE

10月には38歳となる杉内。左肩の違和感に悩まされる現状だが、それでも前を向く 【写真=BBM】

 帰らなければいけないマウンドがある。仲間のため、チームのため、そして家族のため。2015年以来、1軍マウンドから遠ざかる杉内俊哉の野球人生を懸けた1年が始まる。

まだブルペンで投げる段階にない

 杉内を乗せた車は都心ではなく、川崎方面へと向かった。行き先は2、3軍選手が汗を流すジャイアンツ球場。

「もう高速から見る景色もすっかり頭に入ってるよ。“あ、あそこの看板変わったな”とか気付くもんね」

 自虐的にうっすらと笑みを浮かべる。それもそのはず。15年を最後に2年間、1軍マウンドから遠ざかっているのだ。今年の10月で38歳。正念場を迎えている。

「もう2年間投げることができていない。チームに迷惑をかけてしまっているし、自分にとって今年が本当に大事なシーズンになるのは分かっている。悔いのないように、今できることをその日その日、精いっぱいやっていきたい」

 はっきり言って、現状は明るくない。左肩の違和感に悩まされている。約70メートルの遠投はできるが、次のステップであるブルペンでの投球に進むことができない。

「まだブルペンで投げるまでの段階に入っていない。傾斜で投げると、肩に平地とは違う負担が掛かる」

 ボールを投げることはできるが、主戦場であるマウンドに立てない。もどかしい日々が続く。邪念を振り払うかのように、遠投で目いっぱい、腕を振っている。

 右股関節の故障がすべての始まりだった。15年10月には手術に踏み切った。直前の登板後は自力歩行が困難。ロッカールームで足を引きずり、当時のコーチ陣からは「スギ(杉内)、大丈夫か?」と声をかけられたほどであった。手術を無事に終えても元通りになる保証はないものだったが、受けなければ将来的な日常生活にまで支障をきたす可能性があった。

 術後、しばらくは車イスでの生活を強いられた。その後は順調にリハビリの階段を上がっていった。16年の秋季キャンプでは、高橋由伸監督の前でブルペン投球を披露し、「今のところ、いいボールを投げている。もともと持っているものは素晴らしいし、少しでも(本来の姿に)近づいてほしい」とうならせていた。

 ところが、である。知らず知らずに患部をかばいながら投球を続けていたことでフォームが崩れ、上体に頼っていた。そのつけが、今度は左肩の違和感という形で表れた。

14年までは3年連続2ケタ勝利も…

 国内FA権を行使し、福岡ソフトバンクから巨人に移籍したのが11年オフ。移籍を決断した理由の1つに「背番号18」があった。「18番は、どのチームにとっても特別なもの。投手であれば誰もが背負いたい番号だと思う。巨人ならなおさら特別。それを外様である自分に用意してくれた」。当時の原沢敦GMの計らいに、心は大きく揺れた。

 もうひとつ、ソフトバンクの王貞治会長から指揮官時代に聞いた「巨人は特別な球団」という言葉。「あの王さんをして“特別な球団”と言わしめる。僕もそういうチームで勝負をしたい」。縁もゆかりもなかった東京に、家族を伴って移籍することを決めた。

 現役最強左腕という看板を引っさげ、巨人の一員になった。キャンプ初日、2月1日のブルペン。自分の投げ込むボールを見つめる原辰徳監督の姿があった。同じ福岡県生まれ。幼少期の杉内にはあこがれの選手のひとりであった。「子どものころ、原さんのバッティングフォームをマネしたりしてた。テレビでもよく見ていたもん」。投球後にはその指揮官から声をかけられる。「調子はどうだ?」。不思議な感覚だった。

 さらに、驚いたのは報道陣の数の多さだった。「どこに行っても記者さんがいる。しかも1人、2人じゃない。ソフトバンクも報道陣の方は多かったけど、巨人は別格だった」。こんなところからも王会長の話していた「特別な球団」を肌で感じていた。

 ともに日の丸をつけてプレーした阿部慎之助や、同じ九州出身の脇谷亮太ら、以前から面識のある選手はいた。生活面で気にかけてくれたのは、当時は現役選手であった高橋監督だった。キャンプ中から何かと気にかけ、声をかけてくれた。食事にも誘ってもらった。

「なじめるか不安でしたし、すごく感謝してます」と振り返る。試合後の深夜にも立ち寄れるようなご飯屋さんや、家族で気兼ねなくいけるようなレストランも紹介された。今でも通い続けている店もある。

 1年目の12年は12勝4敗。5月30日の東北楽天戦では史上75人目のノーヒットノーランも達成した。「プレッシャーもあったけど、途中からはそういう環境の中で投げられることは幸せだと思えた」。背負う巨人のエースナンバーを、力へと変えていった。

 貯金8を生み出し、チームの初の5冠(交流戦、レギュラーシーズン、クライマックスシリーズ、日本シリーズ、アジアシリーズ)に大きく貢献。輪の中心で原監督を胴上げし「ソフトバンクでも巨人でも優勝することができた。(FA権を行使して)挑戦して良かった。本当に幸せ」と歓喜を味わっていた。

 14年まで3年連続2ケタ勝利。順風満帆なFA移籍に思えたが、15年から股関節の痛みは強まり、同年10月の手術につながった。

1/2ページ

著者プロフィール

新着記事

編集部ピックアップ

コラムランキング

おすすめ記事(Doスポーツ)

記事一覧

新着公式情報

公式情報一覧

日本オリンピック委員会公式サイト

JOC公式アカウント