ロナウジーニョと過ごした魔法の時間 サッカーは夢、喜びに満ちたキャリアに幕
12年にも引退を考えたが……
アトレチコ・ミネイロではコパ・リベルタドーレス優勝を成し遂げた 【写真:ロイター/アフロ】
それでも、12年に移籍したアトレチコ・ミネイロでロナウジーニョは再びビッグタイトルを獲得した。このタイトルには特別な思いが込められ、母への深い愛情が関わっていた。母ミゲリーナは12年にがんであることが分かり、闘病を続けていた。ロナウジーニョは心配のあまり母の側にいたくて密かに引退を考えていたほどだった。そんなロナウジーニョを励まし、回復を祈ってアトレチコのサポーターがドナ・ミゲリーナの絵が描かれた横断幕を作ってくれたのだ。
翌年、奇跡的にドナ・ミゲリーナが回復した時、ロナウジーニョは目を真っ赤にして
「昨年からずっと僕はつらい時期を過ごしてきた。でも、アトレチコサポーターはぼくを温かく抱きしめてくれたんだ。彼らのためにプレーする」とアトレチコへの愛を誓った。ロナウジーニョにとって初めて、クラブにとっても未踏のコパ・リベルタドーレス優勝を成し遂げたのだった。
心が折れそうになっていたロナウジーニョを支えたのはサポーターの存在だった。
「僕にとって母は全てなんだ。母のことを思うと引退も考えたが、アトレチコサポーターの祈りのおかげでぼくはもう一度やる気を起こしたんだ」
ロナウジーニョ「やることは全部やった」
ケレタロ(写真)、フルミネンセでプレー後、2年間はどこにも所属せず 【写真:ロイター/アフロ】
そして、15年に契約を交わしたのが、最後のクラブとなったリオデジャネイロの名門フルミネンセだった。ロナウジーニョとしては、現在人気・実力ともにナンバー1のコリンチャンスからのオファーを望んでいたが、常に本気で優勝を狙うクラブに35歳のロナウジーニョが呼ばれることはなかった。フルミネンセでは背番号10で迎えられたが、9試合に出場して得点はゼロに終わった。
17年にはバルセロナのOB戦に出場した 【写真:なかしまだいすけ/アフロ】
今回正式な引退発表をしたが、もう心ではサッカーから離れることを決めていた。
「もうやることは全部やった。夢もたくさんかなえた。今まで、試合でいろいろなところに行く機会はあったけれど、ただの移動でその土地を知ることもできなかった。でも、これからは今までと違う旅行を楽しめる」と、新しい生活にワクワクしているところだ。
グレミオへの特別な思い
グレミオには特別な思いがある(写真は00年、ロナウジーニョは左下) 【写真:アフロ】
トリコロール(青白黒のグレミオカラー)のユニホームを着てプレーする兄の姿を見て育ち、サッカー選手になるという夢をかなえたクラブ。けれど、サポーターにしてみるとロナウジーニョはクラブが生んだ最高のクラッキ(名選手)ではなく、パリ・サンジェルマンにゼロ円移籍をして恩を仇で返した裏切り者だ。さらには、11年にグレミオ復帰をほぼ決めていながら最後の最後でフラメンゴに寝返ったことも追い討ちをかけた。グレミスタ(サポーター)たちの心にはロナウジーニョへの憎しみが今でも消えない。かつてのクラブで引退記念試合をしたいと願っているロナウジーニョだが、グレミオのサポーターたちからは門前払いだ。
17年にグレミオがクラブW杯に出場した際、「絶対に応援する。今までも応援してきたし、これからも永遠に応援し続ける」とグレミオへの愛を口にしたロナウジーニョの言葉にうそはないはずだ。家族と過ごした思い出の地で再びトリコロールのユニホームに袖を通すことができたら、思い残すことはなかったのではないだろうか。引退メッセージに「父と家族の支えが……」と書いたロナウジーニョの心には父が生きていた頃、母、姉と4人でグレミオでプレーするアシスを見ていた家族の姿を思い出したのではなかろうか。
魔法のような時をどうもありがとう
サッカーはロナウジーニョの夢そのものだった 【写真:ロイター/アフロ】
だからこそ、絶頂期のようなプレーができなくなったキャリアの終盤まで、サッカーを愛し、自らのプレーに自信を持ち、ひとつでも多くのタイトルを目指して必死にもがいて、最後にやることはすべてやったと言い切ったのだろう。
サッカーはロナウジーニョの夢そのものだった。あなたの夢をわれわれも一緒に見させてもらった。魔法のような時をどうもありがとう。そして、お疲れ様でした。