大塚製薬が四国初のJクラブになるまで J2・J3漫遊記 徳島ヴォルティス<前編>
24万人の署名を集めるも、突然の断念
大塚製薬サッカー部の部長だった小賀正條。哨戒機の元パイロットという異色の経歴の持ち主 【宇都宮徹壱】
94年といえば、Jリーグが開幕してまだ2年目。当時は12チームしかなく、ホームタウンは関東、東海、関西、中国に限られていた。Jクラブが本州にしかなかった時代、「四国に新たにJクラブを作ること」がどれだけ破天荒なプランであったか、容易に想像つくだろう。夢の担保となっていたのは、地元の優良企業である大塚製薬の存在。当時、Jリーグチェアマンだった川淵三郎は、北海道、四国、九州にもJクラブが誕生することを強く望んでおり、四国については大塚製薬の動向に期待していたと伝えられる。
当時の新聞記事によると、Jリーグが開幕した93年の秋には、民間の有志が県内にJリーグクラブを誘致する団体を結成。すぐさま署名活動を開始している。集まった署名は24万人分。徳島県の人口が約74万人だから、実に3分の1近い数である。やがて県サッカー協会、徳島市、鳴門市、そして徳島県による「誘致検討委員会」が発足。しかし94年9月13日、当時の県知事が突如として計画の断念を発表する。理由は「スポンサーと経営者が集まらなかったから」というもの。実際のところは、どうだったのか?
「結局のところ徳島では、大塚製薬が首を縦に振らないと、何事も進まないわけですよ。確かに明彦社長が積極的でしたが、お父さんの(大塚)正士会長は『ウチは製造業。あちこち色気を出すのはけしからん』と批判的だったんですね。そうした話が、おそらく知事の耳にも入ったんだと思います。ただし、本当に寝耳に水でしたね」(小賀)
「ちょうどその直前に『Jリーグに上がるには20億円が必要』というネガティブな報道があったんです。そんなお金は県にはないし、赤字になったら誰が補填(ほてん)するんだという話になったと思います。新たなクラブの受け皿を県が作るという話だったのに、そこで当時の知事が引いてしまって、大塚も手を挙げられなくなったんでしょうね」(加藤)
「ヴォルティス」の登録商標と全国リーグ残留
「VORTIS」というクラブ名には、「四国を代表するクラブ」という意味も込められている 【宇都宮徹壱】
「ヴォルティスの本当の表記は『VORTICE』なんですけど、あえて『VORTIS』にしたんです。最後の『TIS』は、土佐(高知)、伊予(愛媛)、讃岐(香川)という意味があって、四国を代表するクラブになろうというメッセージをこめました」と小賀。まさかその後、徳島のみならず、愛媛や香川にもJクラブができるなど、この時は夢にも思わなかったことだろう。ただし、この名称での活動はわずか5シーズンで終了。その後、99年に現在のJFL(日本フットボールリーグ)が発足した際、元の大塚製薬サッカー部に戻している。
小賀は00年、サッカー部の部長を辞してクラブを離れることとなった。この間、彼は2つの大きな置き土産を残している。まずはヴォルティス関連の登録商標。本社の法務部の協力を仰ぎながら、さまざまなケースを想定した登録商標の取得を済ませておいた。「いずれまた『Jリーグへ』という話になったとき、そのほうが絶対にスムーズにいきますからね」とは当人の弁。そしてもう1つが、99年のJFL発足に関するもの。旧JFLを発展的解消し、新たにJ2を創設するにあたり、残った企業チームを地域リーグに戻すという案が出た際に小賀は猛反発した。
「あの時は、ウチと本田(技研)さんとで『頼むから全国でやらせてくれ!』と主張しました。四国リーグに戻されたりでもしたら、チームの弱体化は免れなかったでしょうね。94年のJリーグ断念もショックでしたけれど、実は全国リーグに残れるかどうかという、あの時がウチにとっての一番の危機だったと思っています」
かくして、日本サッカーのピラミッド再編という荒波を乗り越えて、大塚製薬は99年以降もアマチュアながら全国リーグでの活動を続けてゆく。「ヴォルティス」の名を外し、完全なる企業チームとして再スタートを切ったことで、一時的な戦力ダウンは免れなかった。それでも徐々に力を盛り返し、01年には2位、02年には3位、そして03年にはJFL初優勝を果たした。そしてこの年、クラブに大きな転機が訪れる。徳島県知事選挙で、「徳島にJクラブを作る」ことを公約に掲げた飯泉嘉門が当選。一度はついえたJリーグの夢が、10年の時を経て再び動き出したのである。
<後編(11/29掲載予定)につづく。文中敬称略>