井川慶が語る進退とこれまでの野球人生「NPBから声が掛からなければ…」

カワサキマサシ

「上のレベルで」という気持ちでメジャーへ

2007年にヤンキースに移籍するも、09年以降はマイナーでの登板が続いた(写真は10年のもの) 【写真は共同】

──阪神で20勝を挙げて2度の優勝にも貢献と、絶頂期にアメリカに渡りました。メジャーでプレーすることは、どのあたりからイメージしていたのですか?

 先発ローテーションにしっかり入ったころからタイトルも取りはじめて、そのあたりからですね。もっと上のレベルがあるなら、そこでプレーしたいと思い始めたのは。それがメジャーでした。お金は関係なかったです。日本がいちばんレベルが高いなら、日本でずっとやっていましたね。

──ヤンキースにはポスティングによる大型移籍で注目を集めましたが、1年目は14試合登板で2勝。2年目はわずか2試合の登板で0勝。その後、契約が満了するまでの3年間は、一度もメジャーに上がれない不遇もありました。

 ヤンキースは、どんどん補強をしていく。1回でダメだというレッテルを貼られると、マイナーに落とされて戻れない。そういう傾向のチームなので、仕方のないことだとは思っていました。それでもマイナーでも投げさせてもらえる場所を与えてもらえるので、そこで結果を出そうと思っていましたね。

──そのころは、つねにメジャーに戻ることを考えていた?

 結果を出すというか、自分の仕事をすることだけですね。2、3年目くらいから、どんなに結果を出しても、チーム事情で上がれないとわかっていましたから。だけどせっかくアメリカにきて、投げさせてもらえる場所があるので、そこでなんとかやりたいなと思っていました。

──その時期にヤンキースとの契約を打ち切って、日本に戻る考えはなかったのですか?

 日本の球団からオファーはありましたよ。でも自分がアメリカでどうしたいかを考えて行っていたので、そこがブレることはなかったですね。とにかくアメリカで、マイナーでもいいので、結果を求めてしっかり投げ続けたいと思ってやっていました。

──アメリカでプレーした5年間を振り返ると、どんな思いですか?

 最後はヒジにネズミがあってダメだったんですけど、3年目まで先発で回してもらえたのかな。4年目から中継ぎを初めて経験して、難しいなと思いましたね。そこからトレーニングも、なかなかできなかったですし。とくにロングマンだったので、出れば長いイニングを投げるけど、出ないとなると1週間くらい登板がない。3週間くらいないときもありました。中継ぎは難しいと感じましたが、いい経験になりましたよ。

──向こうの野球を経験して、得たものは?

 野球発祥の地で、野球の文化全体を体験することができたことですね。メジャーでもマイナーでもプレーしましたし、ルーキーリーグも見たりして、全部体験できたことが良かった。「みんな、こんなに一生懸命にやっているんだ」とか、「ポテンシャルはすごく高いのに、もったいないな」とか、いろいろな選手がいるので面白かったです。

──野球人として得た経験、知識は大きかった?

 そうですね。3Aの試合には、日本からのスカウトもいっぱい来るんですよ。自分も3Aの選手を見る機会が多くて、スカウトの方に聞かれて選手の情報を伝えたりしていましたね。いろいろな選手が見られたのはいい経験でしたし、メジャーでバリバリにやっている選手も、彼らがマイナーにいるときに一緒にプレーできたのはうれしかったです。日本に来る外国人もチームメイトだったり、けっこう知っている選手が多いんですよ。

──日本に入ってくる情報では苦労している様子が伝えられていましたが、実際には楽しんでいたんですね。

 楽しんでいましたよ、ホントに。日本にいろいろと情報は流れていたと思うんですけど、メジャーに上がれないのは自分でもわかっていました。置かれている環境で、自分がやるべきことをやり切ることが第一だなと。でもまぁ、メジャーのほかのチームでやってみたい気持ちは、多少なりともありましたね。

振り返ると「いい野球人生を送れている」

阪神時代は2003年に最多勝のタイトルを獲得するなどエースとして活躍。写真は06年のもの 【写真は共同】

──これまで、なにを求めて野球をしてきたのですか?

 やっぱり満足感、それはあると思いますね。自分がトレーニングを積んだだけのことが、試合になって出せる満足感というか、やった甲斐があるんですよ。それを追い求めているというか。楽しいですよね、やったぶんだけ返ってくるというのが。一般社会ではなかなかないでしょうけど、野球はそれが出しやすいですから。

──他人や誰かのためではなく、自分の内に向かう気持ちのためにやっていた?

 高校時代は自分のせいで甲子園に行けなかったので、プロに入ってからはその罪滅ぼしというか、みんなに喜んでもらおうと思って、一生懸命に頑張っていたところもあります。でもそれは阪神時代に恩返しできたと思うので、あとは自分のためというか。それは、ありましたね。

──年齢的にも、選手生活の晩年といえます。若いころに自身の晩年や、現役の終わり方を思い描いていましたか?

 そんなに深くは、考えていなかったですね。ただ投げられなくて、ボロボロになって辞めたくないなとは思っていました。これもヤンキース時代のチームメイトだったマイク・ムシーナ投手の話なんですが、彼も最後に20勝して辞めたんですよね。ああいう終わり方ができたら、最高だなと思います。

──NPBで勝ち星を挙げて、引退するのも美しいのかもしれませんね。

 そうですね、ははは(笑)。

──井川選手にとって、野球とは?

 昔だったら仕事とか、そういう感じで言っていたかもしれません。生まれてから今まで野球をやっている時間のほうが長いですし、いい青春かなと思います。38歳になって、青春という言い方はおかしいですかね(笑)。いい思い出もたくさんありますし、すごく打ち込めるものだった……。だったというか、わからないですよ、まだやるかもしれないですし(笑)。周りの方々のおかげで、いい野球人生を送れているなと、すごく感謝しています。

──ブルーサンダーズ退団後も、どこかでトレーニングを続けるのですか。

 せっかくヒジ、肩が痛くないですからね。アマチュア相手だったら練習になるくらいのボールは投げられるので、どこかでバッティングピッチャーとかをやって、若い選手の肥やしになりたいなと思っています。そこで経験を伝えるというかね。

──今後の進退に関しては、あくまでも引退ではなく休養だと。

 NPBの球団から声が掛からなければ、休養ですね。中村ノリ(紀洋)さんも休養ですもんね。そういう形でも、いいと思うんです。ただ自分の場合は、2カ月くらいボールを投げなければもう投げられないんですよ。投げ続けていないと、投げられない肩なんです。なので2カ月くらい投げなかった期間ができたら、そこで終わるなと自分のなかでは思っています。

──では井川慶「休養宣言」ということで、記事をまとめましょうか?

 いやいや(笑)、まだ休養じゃないんじゃないですか。NPBの球団からオファーがなければそうですけど、声がかかったら休養じゃないので。その宣言は、まだしませんよ。

   ※   ※   ※

 NPBへの復帰の道が明るくないことを、彼はしかと自覚している。しかし話しぶりには焦燥や悲壮感などはなく、むしろ終始、清々しい表情が印象的だった。それは10月の阪神戦で自らに与えられた3イニングを投げ終え、ベンチに戻る際に見せた顔と同じものだった。高卒でプロ入りし、38歳になった男の顔に表れていたのは、自分が追い求めた野球をやり切った、晴れやかな気持ちなのだろう。

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著者プロフィール

大阪府大阪市出身。1990年代から関西で出版社の編集部員と並行してフリーライターとして活動し、現在に至る。現在は関西のスポーツを中心に、取材・執筆活動を行う。

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