阪神・狩野、波乱万丈の現役生活17年「野球なしでは生きていけない」
引退試合で「苦しい思い出は吹っ飛んだ」
引退会見では、多くのファンから声援を受けて感謝したことを語り、号泣する場面もあった狩野 【写真:BBM】
高卒ルーキーとして入団するまでは、即戦力で通用すると信じていた。しかし、キャンプ初日で、その鼻っ柱を折られ、約5年間も2軍暮らしを送った。そんな選手が17年後、自身の引退試合で「ありがとう」と言われる選手にまで、登り詰めた。
──17年間の現役生活お疲れ様でした。現役を終えられて、1カ月近く時間が経ちました。
かなりゆっくりさせてもらっています。朝も自由ですし、子どもの送り迎えだけをやっている感じです。シーズン中、1軍にいるときは、送りはできるんですが、2軍にいると朝が早いので、できません。今年は2軍だったので、それができなかったですからね。
──急にゆっくりとした生活になると、これでいいのかな、という不安はないですか?
不安はありますけど……。17年やってきたので、いまはゆっくりしようかなと。
──阪神での17年間はどういう野球人生だったのでしょう。
終わりよければすべて良し、ですね。最後に素晴らしい引退試合(9月27日2軍広島戦)をやっていただけたので、苦しい思い出などすべて吹っ飛んで行きましたね。あの1試合で幸せに終われました。引退試合をしてもらえる選手は少ないですから、1軍、2軍の試合は関係なく、もう感謝しています。
──ファンに愛されたという実感があったと言われていましたが、心に響いた言葉などはありますか?
「ありがとう」。この言葉が一番です。なかなか言われることがない言葉ですからね。お金を出して球場に来てもらっていながらプレーを見てもらい「ありがとう」と言われるんですよ。本当にありがたいです。苦労が報われたな、と。
入団時は「本当にチーム内で一番ヘタ」
2000年のドラフト3位で入団した狩野(左手前)。赤星憲広(右手前)や藤本敦士(右奥2人目)の同期がいる中で最も長く現役を続けた 【写真:BBM】
本当に素晴らしいところです。自分の人生をかけているところを見てもらえますしね。僕の場合、選手としてこれだ、というものはなかったですが、野球人生で考えれば、これで良かったと思います。
──入団当初はなかなか1軍に上がれませんでした。
入団直後は、1軍で活躍できるぞ、と勘違いしていました。しかし、キャンプが始まった初日にレベルの差を痛感しましたね。ここでやるしかないと腹をくくりました。本当にチーム内で一番ヘタでしたから。
──そこから何年後に1軍に行くぞ、という計画を持っていったのでしょうか?
ある先輩から「高卒3年で1軍に行こう」という考えを持っていたら、1軍には上がれない、と言われました。1年以内で絶対に1軍に上がろう、という気持ちを持ち続けて初めて3年目くらいで1軍に上がれるんだ、と。だから1日1日の積み重ねが、1軍につながると考えるようにしていました。
──4年目で1軍に上がりました。「ようやくきたか」という気分だったのでしょうか?
最初はそんな感じでしたが、結果を出さないといけない場所ですから「怖さ」を知るようになりました。特に捕手は結果が最優先でしたからね。怖かったですね。
──07年4月に初安打でした。これでやっていける、一歩目を踏み出したと。
いや、野球人生の最後までやれるぞ、と思ったことは一度もないです。毎試合これでいいのかな、という感じですね。日々進歩していかないと、新しい選手も入ってくるので、自分の場所がなくなるというか。ずっと、このままではヤバいぞ、と思いながらプレーしていました。
──09年には127試合出場ながら、翌年に城島健司さんがマリナーズから加入しました。
周りが言うほど、城島さんが加入したから、どうこうというのはなかったんですよ。FAで取った選手を使わない球団はないですから。それ以前に、自分の中で守備面に不安があったので仕方がないな、と思っていました。もちろん、反骨心はありましたけど。
──自分の弱点をもっと強化しようと思っていた。
この時期は28歳くらいで、強化したほうがいいのか、試合に出るほうがいいのか、の葛藤がありました。城島さんが4年契約をされましたので、僕の出番が少なくなるのは必然ですよね。だったら、どうしたら試合に出られるか……それで外野で試合に出られる道というのを探したということですね。