1997年 ジョホールバルとJの危機<後編> シリーズ 証言でつづる「Jリーグ25周年」

宇都宮徹壱

専門誌を苦しめた情報過多と消耗戦

消耗戦が始まるきっかけとなった中田のペルージャ移籍。海外の情報をいかに早く仕入れるかが鍵となっていく 【写真:Enrico Calderoni/アフロスポーツ】

 かくして、日本のW杯初出場という至福の中で、サッカーファンにとっての激動の97年は終わる。翌98年はいよいよW杯イヤー、さらにその後は2002年に向けてのイベントもめじろ押しだ。専門誌に携わる人間にとっても、非常にやりがいのある時代が到来しつつあるように思われた。しかしそれは、消耗戦の始まりでもあった。きっかけとなったのは、98年W杯直後の中田英寿のペルージャ移籍である。以下、六川の回想。

「それまでのように代表とJだけでなく、中田を含めた海外の情報をいかに入れていくかという方向に、だんだんシフトしていったんですよね。僕も99年の年明けに通信員をしてくれる人と話をするために、ペルージャに行きましたよ。ちなみに02年に、ダイジェストの発売が水曜日から火曜日に前倒しになったんだけれど、これも中田の影響。その時、僕はもう編集部にいなかったけれど、発売曜日の移動についてはダイジェスト主導でした」

 98年のW杯フランス大会後にマガジンの編集長となった伊東も、海外情報の扱いに頭を悩ませていた。確かに、表紙にペルージャの中田を持ってくれば雑誌は売れる。しかしそれでは、Jリーグをないがしろにしてしまうのではないか。そんなジレンマが、編集部内にはあったという。

「あるJクラブを表紙にしたら、まったく売れなかったということがあったんです。それまでのポリシーを貫きたいけれど、やっぱり雑誌の売上も考えないといけないから、そこは悩みましたね。あと、発売日の移動も大変でした。土曜日に中田のローマがユベントスと試合をして、水曜日発売だと確かに遅いんです。でも火曜日発売にすると、Jリーグの入稿作業を日曜日から土曜日に前倒しにしないといけない。しかもこのころになると、もうインターネットが出てきていましたから、スピードでは到底かなわないわけですよ」

 マガジンとダイジェストの熾(し)烈なライバル関係は、情報過多に起因する消耗戦に加えて、BSやCSなどの映像メディアの多チャンネル化、さらにはインターネットとスマートフォンの普及が追い打ちをかけたことで、やがてあっけない終えんを迎えることとなる。マガジンは2013年10月をもって週刊から月刊へ移行。一方のダイジェストは、14年いっぱいまで週刊誌としての命脈を保つも、ライバル不在のダメージとプレッシャーは予想外に大きく、15年からは月2回の発行となった。以降、わが国から週刊サッカー専門誌は完全に消滅することになる。

 マガジンの伊東もダイジェストの六川も、サッカー専門誌の現状について「時代の必然ですね」という意見で一致していた。両誌は形を変えて今も存続しているが、いち読者の視点に立った時、20年前のような創意工夫やワクワク感は、残念ながら感じられない。それは現編集部の問題というよりも、当時と今とではサッカーに関する情報量とメディアのあり方があまりに違いすぎることに尽きるのだと思う。そしてネットとスマホが全盛となった現代では、膨大かつ細分化された国内外のサッカー情報を、ファンは自由に取捨選択できるようになった。確かにサッカー消費者には便利な時代になったが、かつての専門誌の「熱量」を知る世代のひとりとしては、いささかの寂しさを拭えずにいるのも事実である。

<この稿、了。文中敬称略>

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)

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