デビュー25年、秋山準のプロレス人生
「この先、馬場さんみたいになるのが理想」
デビュー25年を迎えた全日本プロレス秋山準社長に、これまでのプロレス人生を聞いた
デビュー25年を迎えた全日本プロレス秋山準社長に、これまでのプロレス人生を聞いた【写真:Yanomori tomoaki】

 今年10月に旗揚げから45周年を迎える全日本プロレス。その老舗団体を選手として、社長としてけん引し、若手選手に厳しいゲキを飛ばしながら、今現在もタイトル戦線の先頭に立ってリングを盛り上げているのが秋山準だ。「旗揚げ記念シリーズ〜秋山準&大森隆男デビュー25周年記念大会〜」となる21日の神奈川・横浜文化体育館大会では、同期の大森と組んで、大日本プロレスの関本大介&岡林裕二組の持つ世界タッグ王座に挑戦。デビューから25年、48歳を迎えた今、これまでのプロレス人生や全日本の今後についてインタビューを行った。

レスラーとして一番の思い出は新日本・永田戦

「今思えば、あっという間の25年」と話す秋山
「今思えば、あっという間の25年」と話す秋山【写真:Yanomori tomoaki】

――まずは、お誕生日おめでとうございます(インタビュー当日は10月9日)。今も若々しくて、全然48歳という気がしないですね。


 いやもう、恥ずかしいですね。気がしなくても48歳です。


――1992年9月17日に後楽園ホール大会のセミファイナルで小橋健太(当時)選手とデビュー戦を行って以来、25年がたちました。秋山選手としては、早かったなと思いますか? それとも、長かったと感じますか?


 今思えば、あっという間の25年。若い頃は長く感じましたね。一日も長かったし。でも、年を取るにつれて一日も早くなって、今思うと、もう25年だなって感じかな。


――この25年の間、リング内外で本当にさまざまなことがありましたが、一番印象深かったことは何ですか?


 何ですかね? 25年間、いろいろあったけど、プロレスラーとしては、新日本プロレスに乗り込んだ時かな。師匠とか先輩が亡くなった時も、いろいろなことを考えさせられたけれど、プロレスラーとして今ここにいられる出来事として一番印象的だったのは、新日本で永田(裕志)選手と試合できたことですね。

行き詰まりを感じて外に出る決断も

新日本の永田(左)とは同世代。新日本のリングに上がるきっかけにもなった
新日本の永田(左)とは同世代。新日本のリングに上がるきっかけにもなった【スポーツナビ】

――これまでのプロレス人生を振り返ってみると、92年に全日本でデビューした当時は「超新星」と呼ばれ、その年の最強タッグに田上明選手とのタッグで出場したり、翌年には試練の七番勝負も組まれたりと、当時からエース候補として活躍を期待されていました。


 デビューした時は、プレッシャーは感じていたけど、やらないといけないと思っていた。同時期に新日本に行った選手たちは、レスリングでいい成績を収めていたし。自分はいい成績を残していなかったのに、入団時に記者会見も開いてくれて、変なことはできないなというプレッシャーはあった。それはもう、(ジャイアント)馬場さんに対するというか、スカウトしてもらって変な試合はできないというプレッシャーだね。


――その後、師匠であったジャイアント馬場さんが99年1月に亡くなり、大先輩のジャンボ鶴田さんも00年5月に亡くなり、同年6月に全日本を退団。8月5日に東京・ディファ有明で行われたプロレスリング・ノアの旗揚げ戦に参加しました。秋山選手が他団体に出ていく最初のきっかけとなったのは、01年3.2ZERO−ONE両国国技館大会(橋本真也、永田裕志組vs.三沢光晴、秋山組)でしたね。


 とにかく、ノアという団体ができて、全日本と違ってネームバリューがない中で、いかにノアという団体を発信できるかを考えていた。自分自身も、外から見たらそう見えないかもしれないけど、行き詰まっている感覚があったし。このままでは、三沢さん、小橋さんを抜けないという壁、同じ位置でジーッとしているジレンマを打ち破りたかった。その行き詰まった感覚をぶち壊したい、はがしたいというのもあって、他団体という目立つところを求めていった。その最初の一歩でしたね。デビュー当初は自分で考えるというより考えてもらっていたけど、あとは自分で考えて切り拓いた。もちろん、協力してくれる人はいたけど、やりがいはあったし、今、外に出たら、もっともっと、自分自身も、ノアという団体も知ってもらえる、というのがあった。


――これをきっかけに永田選手とのパイプができ、同年10月8日には、新日本の東京ドーム大会に乗り込んでいます(秋山、永田組vs.武藤敬司、馳浩組)。ドームという会場自体は全日本でも経験していましたが、やはり違うものでしたか?


 全然違った。お客さんから、『来るな』『死ね』と言われていたけど、試合自体は気持ち良くさせてもらったし。この時のドームが起点。その後も正月(03年1.4東京ドーム)やG1クライマックス(03年)に上がった時のことも覚えているけど、この10月のドームが始まりなので、意識としては大きいね。

現役の最後は「全日本で」という気持ち

――その後、09年6月に三沢さんが亡くなって、12年末にノアを退団。13年に全日本へ再入団しました。三沢さんが亡くなった直後にはGHCヘビー級王座を返上するなど、秋山選手自身も、かなりショックが大きかったと思いますが?


 そうですね。自分も腰がヘルニアで動けなくて、しっかりしなければいけない時期だったのに、チャンピオンだったのに、ふがいない、情けない気持ちでした。馬場さんの時もそうだけど、大きい、ドンとした、この人がいたから、という人がいなくなることに気持ちがついていけなかった。


――ノアを退団した理由は、やはり、三沢さんが亡くなったことが大きいですか?


 やっぱり、いろいろなことがあっても、三沢さんがいるから、とか、三沢さんがやってるから、頑張ってくれているからというのがあった。でも、三沢さんがいなくなって、もうそこを考えることもなくなって。それに、自分の体調も良くなくて、プロレスラーとしてそろそろ終わりかな、と思ってる時期でもあったので、退団という形にさせてもらいました。


――その次の舞台として、古巣の全日本を選んだ理由は?


 自分がいた頃とは人も全部、変わっていたけど、最後に行くなら全日本、という気持ちがあったので。

高木裕美

静岡県沼津市出身。埼玉大学教養学部卒業後、新聞社に勤務し、プロレス&格闘技を担当。退社後、フリーライターとなる。スポーツナビではメジャーからインディー、デスマッチからお笑いまで幅広くプロレス団体を取材し、 年間で約100大会を観戦している 。最も深く影響を受けたのは、 1990年代の全日本プロレスの四天王プロレス。

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