【全日本プロレス】 デビュー25年、秋山準のプロレス人生 「この先、馬場さんみたいになるのが理想」
デビュー25年を迎えた全日本プロレス秋山準社長に、これまでのプロレス人生を聞いた 【写真:Yanomori tomoaki】
レスラーとして一番の思い出は新日本・永田戦
「今思えば、あっという間の25年」と話す秋山 【写真:Yanomori tomoaki】
いやもう、恥ずかしいですね。気がしなくても48歳です。
――1992年9月17日に後楽園ホール大会のセミファイナルで小橋健太(当時)選手とデビュー戦を行って以来、25年がたちました。秋山選手としては、早かったなと思いますか? それとも、長かったと感じますか?
今思えば、あっという間の25年。若い頃は長く感じましたね。一日も長かったし。でも、年を取るにつれて一日も早くなって、今思うと、もう25年だなって感じかな。
――この25年の間、リング内外で本当にさまざまなことがありましたが、一番印象深かったことは何ですか?
何ですかね? 25年間、いろいろあったけど、プロレスラーとしては、新日本プロレスに乗り込んだ時かな。師匠とか先輩が亡くなった時も、いろいろなことを考えさせられたけれど、プロレスラーとして今ここにいられる出来事として一番印象的だったのは、新日本で永田(裕志)選手と試合できたことですね。
行き詰まりを感じて外に出る決断も
新日本の永田(左)とは同世代。新日本のリングに上がるきっかけにもなった 【スポーツナビ】
デビューした時は、プレッシャーは感じていたけど、やらないといけないと思っていた。同時期に新日本に行った選手たちは、レスリングでいい成績を収めていたし。自分はいい成績を残していなかったのに、入団時に記者会見も開いてくれて、変なことはできないなというプレッシャーはあった。それはもう、(ジャイアント)馬場さんに対するというか、スカウトしてもらって変な試合はできないというプレッシャーだね。
――その後、師匠であったジャイアント馬場さんが99年1月に亡くなり、大先輩のジャンボ鶴田さんも00年5月に亡くなり、同年6月に全日本を退団。8月5日に東京・ディファ有明で行われたプロレスリング・ノアの旗揚げ戦に参加しました。秋山選手が他団体に出ていく最初のきっかけとなったのは、01年3.2ZERO−ONE両国国技館大会(橋本真也、永田裕志組vs.三沢光晴、秋山組)でしたね。
とにかく、ノアという団体ができて、全日本と違ってネームバリューがない中で、いかにノアという団体を発信できるかを考えていた。自分自身も、外から見たらそう見えないかもしれないけど、行き詰まっている感覚があったし。このままでは、三沢さん、小橋さんを抜けないという壁、同じ位置でジーッとしているジレンマを打ち破りたかった。その行き詰まった感覚をぶち壊したい、はがしたいというのもあって、他団体という目立つところを求めていった。その最初の一歩でしたね。デビュー当初は自分で考えるというより考えてもらっていたけど、あとは自分で考えて切り拓いた。もちろん、協力してくれる人はいたけど、やりがいはあったし、今、外に出たら、もっともっと、自分自身も、ノアという団体も知ってもらえる、というのがあった。
――これをきっかけに永田選手とのパイプができ、同年10月8日には、新日本の東京ドーム大会に乗り込んでいます(秋山、永田組vs.武藤敬司、馳浩組)。ドームという会場自体は全日本でも経験していましたが、やはり違うものでしたか?
全然違った。お客さんから、『来るな』『死ね』と言われていたけど、試合自体は気持ち良くさせてもらったし。この時のドームが起点。その後も正月(03年1.4東京ドーム)やG1クライマックス(03年)に上がった時のことも覚えているけど、この10月のドームが始まりなので、意識としては大きいね。
現役の最後は「全日本で」という気持ち
そうですね。自分も腰がヘルニアで動けなくて、しっかりしなければいけない時期だったのに、チャンピオンだったのに、ふがいない、情けない気持ちでした。馬場さんの時もそうだけど、大きい、ドンとした、この人がいたから、という人がいなくなることに気持ちがついていけなかった。
――ノアを退団した理由は、やはり、三沢さんが亡くなったことが大きいですか?
やっぱり、いろいろなことがあっても、三沢さんがいるから、とか、三沢さんがやってるから、頑張ってくれているからというのがあった。でも、三沢さんがいなくなって、もうそこを考えることもなくなって。それに、自分の体調も良くなくて、プロレスラーとしてそろそろ終わりかな、と思ってる時期でもあったので、退団という形にさせてもらいました。
――その次の舞台として、古巣の全日本を選んだ理由は?
自分がいた頃とは人も全部、変わっていたけど、最後に行くなら全日本、という気持ちがあったので。