群馬で再起を誓うカン・スイルの告白 元韓国代表がJ2で戦う理由と、壮絶な覚悟

吉崎エイジーニョ

韓国で犯した2つの罪

韓国代表デビューが目前に迫った15年6月、自らの過ちによって夢が目の前で奪い去られた(写真は14年、浦項スティーラース時代のもの) 【Getty Images】

 そんなカンがJ2の群馬にいることには、明確な理由がある。

 韓国で2つの罪を犯した。うち1つによる出場停止期間が明け、群馬に渡った。所属クラブもない状態だったから、夏の移籍期間が始まる7月末ではなく、5月の登録となった。

 2015年6月、ドーピングに関する間違いを犯した。

「(韓国代表の国際親善試合となる)UAE戦の数週間前となる15年5月、僕はKリーグでドーピングテストの対象者に選ばれました。規定に沿って尿検査を受け、書類を記入した。質問事項と関連して、『顔に塗っているクリームがあり、それは関連がありますか?』と気軽に申し出たら『それは何のクリーム?』と聞かれた。商品名を伝えたんです。するとそれが……禁止薬物のリストに入っていた。僕はそこで初めて知りました」

 黒人とのハーフとして韓国に育ったカンは「自分のルックスに対するコンプレックスがあった」。ときにそれは被害妄想にまで増大していたという。じろじろ見られることはもちろん、街中で英語で話しかけられ、韓国語で返したら笑われるようなことも多々あった。10代の頃には街中で目が合った相手に殴りかかるような時期もあった。「せっけんの泡を顔にずっと塗っていたら、自分の肌の色が白くなるんじゃないかと、ずっとそのままにしていたこともありました」。

 ドーピング違反はこのコンプレックスとつながりがある。ひげ、眉毛などの育毛を目的としたクリームにステロイド系の禁止薬物メチルテストステロンが含まれていた。

「ストレートで長い髪への関心、眉毛の濃さが非対称だった点を直したい、ひげをもう少し濃くしたいといった願望がありました。クリームを塗れば、育毛効果がある。そういう話を聞いて、大学の時からそれを使っていました。プロに入ってからは一時期プレーに集中するため止めていましたが、また活躍して使い始めていたんです。朝昼夜と塗っていました」

 この通告を受けたタイミングがショッキングなものだった。子どもの頃からの夢だった韓国代表に招集中だったのだ。ワールドカップ・ロシア大会アジア2次予選に臨むチームに呼ばれた。当時のウリ・シュティーリケ監督に「ポジションはどこがいい?」と試合出場を示唆されたまさにその日、6月11日にドーピング違反の通知を受けた。遠征中だった韓国代表をそのまま離脱。カンの代表キャップは結局いまでもゼロのままだ。

「クリームを塗ったことは事実です。間違いを犯した。この点には相違ありません」

 もう1つは、15年8月24日未明の飲酒運転事故。出場停止の失意のなか飲酒し、ソウル郊外の議政府市内にて軽い気持ちでハンドルを握ってしまった。

「飲酒運転事故です。友人と飲酒後、代理運転を頼むべきだったのが、『まあ大丈夫だよ』という軽い気持ちでハンドルを握ってしまいました。これも間違いでした。交差点でタクシーと衝突。すぐに恐怖で震えがきたのを覚えています。気が動転して、助手席の友人に対してこう申し出ました。『ドーピングの問題に引っ掛かっている状態。これが知られれば、本当に大きなことになるだろう。友達に対して『おまえがやったことにしてくれないか。俺がすべて責任を取る』。最初は正確にそう言いました。すぐに訂正し、事実を伝えましたが」

 これにより、所属クラブからも突き放された。Kリーグ独自のローカルルール「任意脱退」という処理とされ、解雇されていないものの給料が受け取れない状況に陥った。

感謝の念をゴールで表現

チームメートが近くにいることが幸せだという。カンはその感謝の気持ちをゴールで表現する 【(C)J.LEAGUE】

 罪は罪であり、カンはその罰を受けた。ドーピング違反による出場停止期間はAFC(アジアサッカー連盟)、FIFA(国際サッカー連盟)、CAS(スポーツ仲裁裁判所)と調停が続く中で結局2年間に及び、飲酒運転でクラブから処分を受けた後は金銭的な困難も経験した。その間、子どもにサッカーを教える仕事もやってみたが、社会の厳しい目を感じた。厳しい環境にある韓国下部リーグのトレーニングに参加し、Kリーグ1部の恵まれた環境に気付いたりもした。

 今、群馬のピッチに立つカンには、この存在感を発して、ホームの声援に応えていくしか道が残されていない。

“強い決意を持ってJのピッチに立つ男”

 苦境にある自身に、今年1月に声をかけてくれたのが群馬だった。まったく知らない名前だったが、クラブ側の強い興味を聞き、すぐに日本行きを決心した。

「まずはチームメートという存在に会いたかった。そうやって心の安定を取り戻すところからのスタートでした」

 今年1月に日本に渡った後も困難がつきまとった。群馬への加入について、韓国メディアで「前所属の済州ユナイテッドの許可を得ていない」との報道が出た。この点は群馬のトップチームコーチで、移籍の段階からサポートを続けた在日コリアンのホチョルがこう説明を加える。

「韓国のローカルルール『任意脱退』にまつわる解釈の違いです。カンは15年8月の飲酒運転の後、チームからこの処分を下された。契約期間が満了する16年12月31日までの間、チームから脱退という処分を下されていたわけです。済州は2010年シーズン終了後に仁川ユナイテッドから移籍金を払ってカンを獲得した。『一定期間選手を起用できなかったのだから、その期間分の契約が(スライドして)自動的に残る』と主張した。われわれはインターナショナルルールにのっとり、かつ大韓サッカー協会やKリーグと慎重に協議した上で、フリートランスファーでの獲得を行ったのです。済州の感情も分かるが、制度上の問題があるものではありません」

 苦難の末にJリーグのピッチに立つ。森下仁志監督からは「経験と、苦境を乗り越えてピッチに立つ姿でチームを鼓舞してほしい」と伝えられている。もちろんそれに応えるつもりだ。同時に、感謝の念が沸きあふれる日々を送っている。

「一緒に練習をして、話をして、試合をする仲間がいて、一時は3連勝も経験した。そして応援してくださるサポーターがいる。これだけでも本当にありがたいことなんです。草津でのミニキャンプでは、マテウスと、カズマ(高井和馬)の3人での相部屋で、言葉なんか全然通じないのに、ずっと話をしたりして」

 負傷でエントリー外になった試合では、サイン会も実施した。ファンが、自分を好意的に見てくれた。「ああ、この感覚、本当に久しぶりだな」と感じた。ほんの10カ月前の自分からすると、うそのようでもある。

ゴールを決めたあとに見せるポーズ。サポーターをバックに、このポーズでたくさんの記念写真を撮りたいと話した 【スポーツナビ】

 その感謝をゴールで表現する。

 罪のためにキャリアのピークになりえた27歳からの2年間を棒に振った。罰を受けた者には、復活の道が与えられる。これもまた理(ことわり)だ。

 ゴール後、右手を高く挙げるパフォーマンスの裏には、壮絶な覚悟がある。

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著者プロフィール

1974年生まれ、北九州市出身。大阪外国語大学(現大阪大学外国語学部)朝鮮語科卒。『Number』で7年、「週刊サッカーマガジン」で12年間連載歴あり。97年に韓国、05年にドイツ在住。日韓欧の比較で見える「日本とは何ぞや?」を描く。近著にサッカー海外組エピソード満載の「メッシと滅私」(集英社新書)、翻訳書に「パク・チソン自伝 名もなき挑戦: 世界最高峰にたどり着けた理由」(SHOPRO)、「ホン・ミョンボ」、(実業之日本社)などがある。ほか教育関連書、北朝鮮関連翻訳本なども。本名は吉崎英治。

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