新垣渚が振り返る“怪物”松坂大輔 「ダイスケと対戦して、目標ができた」

週刊ベースボールONLINE

新垣だけでなく、全国の高校球児から目標とされた松坂 【写真=BBM】

 高校2年の秋、松坂大輔(現福岡ソフトバンク)との唯一の対戦が、新垣渚(元ソフトバンクほか)の意識を変えた。甲子園で再び──。思いは届かず、明暗分かれた両者。当時を振り返る新垣からは、ライバル心だけではない、松坂への特別な感情があふれていた。

厳しい練習を乗り越えるモチベーションに

 1997年の神宮大会決勝、関東王者・横浜と相対した。沖縄水産が勝てば沖縄県勢初優勝となる一戦だったが、3対5での敗戦。無敵を誇る大きな壁が立ちふさがった。

 ダイスケを初めて知ったのは2年秋の神宮大会です。僕らは秋季沖縄大会、九州大会で優勝して、神宮大会でも決勝まで進み、ダイスケのいる横浜と対戦。僕は試合途中からリリーフ登板しました。ライト前かな、打たれた記憶がありますね。

 神宮でダイスケと対戦して、初めて目標ができた感じがします。チームとして横浜に勝ちたいと思いましたし、個人的にはダイスケより速い球を投げたいと思いました。そこからはかなり意識して、勝手なライバル心を燃やして、スピードでは負けたくないと思っていました。これも対戦したからなんですよね。実際に戦っていなかったら意識しないままに終わっていたかもしれない。そういう意味では大きな転機となった大会でした。

 当時の沖縄水産は、栽(弘義)監督(故人)がかなりの気合を入れて指導していたチームでした。僕らより前の世代が準優勝を2回していて(90、91年)、監督もそれ以上を目指していました。選手としてその期待に応えたい思いはありましたが、それを本当の意味で実感できたのも神宮大会で決勝まで進んで、真の強豪チームの横浜と戦えたからです。

 沖縄水産が2年連続準優勝したとき、僕は小学生でした。そのイメージが強く残っていて、高校野球をやるなら沖縄水産だと、譲れないものがありました。実際は足のケガが続いていて、中学時代に激しい運動ができない時期があり、入学当時は高校野球をやり切る自信がなかったのが正直なところでした。

 入部してみると、想像していた以上の練習でした。中学時代の練習はバッティングとピッチングしかしていないような状態で、基礎体力がありませんでしたから、なおさらきつかったんだと思います。みんなについていくのに必死でした。そんな中でも栽監督は僕ができる範囲での無理を強いてくれていたと感じます。本当にギリギリの線で頑張れるようにしてくれたおかげで、僕は沖縄水産で3年間、野球ができたと思いますし、最後の冬の厳しさを乗り越えるモチベーションにダイスケの存在があったとも思います。

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