1999年のJ2創設は何をもたらしたのか? 『J2&J3フットボール漫遊記』上梓に寄せて

宇都宮徹壱

J2はJ1よりも魅力がないのか?

「Jリーグ最年長ゴール記録」を更新し続ける三浦知良。カズがゴールを決めるとJ2のメディア露出は上がる 【宇都宮徹壱】

「今日のJ2の結果は、こちらです!」

 時間にして15秒ほどであろうか。たっぷり試合映像を見せて得点経過を振り返るJ1と比べると、スポーツ番組のJ2の扱いはかわいそうなくらいに短く、しかも淡泊だ。J3ともなると、テロップでさらっとスコアを見せるだけ、というのもザラ。J2やJ3の映像が地上波で流れるときは、たとえば横浜FCの三浦知良が最年長ゴール記録を更新するとか、あるいはFC東京U−23の久保建英が何かしらの最年少記録を樹立する時くらいだろう。カズにゴールを決められたJ2クラブのサポーターは、自分たちの失点シーンが全国ニュースで流れることに、ある種複雑な思いを抱くのが常となっている。

 たとえば、栄えあるオリジナル10の一員でありながら、J2暮らしが8シーズン目となったジェフユナイテッド千葉。以前このクラブを取材した際、あるスタッフが「J2になって一番愕然(がくぜん)としたことが、メディアの露出が思い切り減ったことですね」と、実感を込めて嘆いていた。長年J1を経験したクラブにとっては、まさに切実な問題であろう。7月8日に行われた第22節、千葉はカマタマーレ讃岐をホームに迎えて4−3という派手なスコアで勝利している。この節を終えて千葉は9位、讃岐は21位となったが、この結果に反応しているのは地元のファンやメディアのみ。J2やJ3が全国的な話題になる時は、「最年長」か「最年少」、あるいは何かしらの不祥事が起こったときくらいであろう。

 7月5日、『J2&J3フットボール漫遊記』という新著を上梓した。これはスポーツナビで2012年から連載している『J2・J3漫遊記』をもとに、18のクラブの物語を綴(つづ)ったものである。何しろ過去5シーズン分の記録であり、クラブは毎年のように新陳代謝を繰り返しているため、当然ながら古びた情報も少なくない。そもそもネットやSNSが発達した現代において、書籍に速報性を求めるのはどう考えてもナンセンスである。

 私がこの作品で目指したのは、年代記(=時代性)であり風土記(=地域性)であった。ではなぜJ1ではなく、J2やJ3に視点を置いたのか。当初、「日の当たらないリーグでの意外な面白さ」を伝えることを目指していたのは事実である。しかし連載を続けているうちに、J2がなければその後のJリーグの発展はなかったという事実にも気付かされた。本書を上梓した今、その思いはますます確固たるものとなっている。

J2が生まれた「1999年」という時代

フジタが再びスポンサーとなることを歓迎する湘南のサポーター。この間、湘南は市民クラブの道を歩んだ 【宇都宮徹壱】

 四半世紀に及ぶJリーグの歴史を振り返るとき、時折「時代のめぐり合わせ」としか言いようがない、絶妙なタイミングというものを実感することがある。Jリーグが開幕した「1993年」は、その最たる例だろう。この年、すでにバブルは崩壊していたものの、オリジナル10を支える親会社には、まだまだ余力があった。また時代の空気感も、バブルの余韻をたっぷり含んでいたので、何か新しいムーブメントを受け入れる余地は十分にあった。もしもJリーグの開幕が2年遅れていたら(あるいは逆に2年早まっていても)、あれほど爆発的な人気を得ることはなかっただろう。

 絶妙なタイミングといえば、J2が創設された「1999年」についても同様である。90年代も後半に入ると、Jリーグのブームは明らかな凋落(ちょうらく)傾向に入り、クラブへのスポンサードを単なる「自社の宣伝」と捉えていた親会社から、次第に逃げの姿勢が見られるようになる。最も有名なのは、横浜フリューゲルスのメーンスポンサーのひとつである佐藤工業が経営から降りることになり、横浜マリノスとの合併がなし崩しに決定したことだろう(これにより横浜Fは消滅。クラブ名は「横浜F・マリノス」となる)。

 これと前後して、97年には清水エスパルスの運営会社であるエスラップ・コミュニケーションズが、98年にはベルマーレ平塚(現湘南ベルマーレ)の責任企業であるフジタが、いずれも経営難を理由にクラブ経営や支援を断念。親会社に頼り切るだけのビジネスモデルは破綻した。そんな状況下の99年、わずか10チームという小所帯でJ2リーグが創設される(J1は当時16チーム)。もちろん、こうした時代背景とJ2創設とは、直接的にリンクしていたわけではない。が、まさに絶妙なタイミングであった。というのも、親会社ありきではない「地域に根ざした」「身の丈経営の」クラブが、J2を中心に次第に増えていくことになるからだ。

 象徴的だったのが、横浜Fと湘南の「明暗」である。横浜Fの経営陣は、全日空だけでクラブを支えることに難色を示し、J2に降格してまでクラブを存続させることは「考えていない」と当時のサポーターに言い放ったそうだ。これに対して湘南は、2000年から09年までの10シーズンをJ2で過ごすこととなり、その間にたびたび経営危機に見舞われた。それでもクラブは、平塚市を中心とする7市3町にホームタウンを拡大し、フットサルやビーチバレーなどを併設。地域に根差した総合型市民スポーツクラブとしての地位を確立しており、今では「地域になくてはならない存在」となっているのは周知のとおりだ。

1/2ページ

著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)

新着記事

編集部ピックアップ

コラムランキング

おすすめ記事(Doスポーツ)

記事一覧

新着公式情報

公式情報一覧

日本オリンピック委員会公式サイト

JOC公式アカウント