大家友和は本物のナックルボーラー アリゾナの砂漠で決着したプロ野球人生

週刊ベースボールONLINE

ナックルボーラーとして再起を目指した大家 【写真=BBM】

 18歳でプロ野球選手になったとき、大家友和は一つの青写真を描いた。ボロボロになるまで選手を続けられたらどんなに本望だろうかと。完全燃焼はアスリートにとっての美学かもしれないが、それを全うすることはたやすくはないし、皆がみな喝采を浴びながら幕を引けるわけでもない。それは泥臭く、汗と血にまみれ、傷だらけになりながら精魂尽き果てるまで最高の一球を投げ込み、死ねるか、という生き様である。

ナックルで飯食っていくのは甘くない!

 もしもナックルボールと出会っていなければ、彼が41歳まで野球を続けることはなかっただろう。36歳でナックルを投げ始めてからの4年半という月日は、悲鳴をあげる肉体をなだめながら、現役続行か、それとも引退かのせめぎ合いの中で魔球の進化と向き合う壮絶な闘いの日々だった。

 そもそもなぜ彼はナックルボールに手を出したのか。

 無回転の魔球に自らの野球人生を賭けようとする者には、バックスピンを封印するそれ相応の理由がある。現役最後となったこの春、大家は実感を込めてこう言った。

「ちょっとかじってみようかなあくらいの気持ちでどうこうできる代物じゃないです。ナックルで飯食っていくのはそんな甘くない!」

 現在、選手登録されているメジャーリーグの投手約360人の中で、ナックルボーラーの先発ピッチャーは、ブレーブスのR・A・ディッキーと、目下60日故障者リスト入りのレッドソックスのスティーブ・ライトの2人だけだ。

 メッツ時代のディッキーは、2012年にナックルボーラーとして史上初めてサイ・ヤング賞を受賞した。もともとレンジャーズのドラフト1巡目に指名されながら、契約直前、彼の利き腕には重要な側副じん帯の一部が欠落していることが発覚する。当初の提示額の10分の1に値踏みされてプロ入りするのだが、20代後半になると球威は落ち込み、コーチからは「生き残る道はナックルボーラーに転向する以外ないだろう」と提案された。31歳のときである。

 レッドソックスで200勝を挙げたティム・ウェイクフィールドの場合、もともと野手としてドラフトされたがまったく打てず、幼いころ父が投げていたナックルボールを見よう見まねで覚え、それがコーチの目に留まって、ピッチャーに転向した。

浪人生活中に一度は引退を決意

 大家友和の「絶体絶命」は、日本球界復帰後の12年に訪れた。古巣・横浜復帰2年目の終盤、彼は初めて肩にメスを入れた。ブリュワーズ時代から肩の痛みに悩まされていた。もっと言うならば、04年のエクスポズ時代の絶頂期にライナーが右腕を直撃、医者からはまるで交通事故にでもあったような、スポーツ選手には起こり得ないひどい複雑骨折だと嘆かれた大ケガが発端かもしれない。

 1994年に横浜でプロ入りし、5年後の99年にメジャー・デビュー。メジャー6年目で痛恨のケガを負ったとき、それは24シーズンに及ぶ現役生活の折り返し地点にも届かない時期だった。砕かれた骨をつなぐため、腕にはチタン合金のプレートとボルトが埋め込まれ、縫合した20センチの傷跡が今も残り、それから13年もの間、彼はプロ野球選手であり続けた。

 11年の肩の手術は、骨の毛羽立ちをクリーニングし、骨の可動域を戻すためのものだった。どんな手術にもリスクはある。しかし、痛くない場所を探しながら投げていた日々の苦痛から解放されるならば、そしてもう一度、思い切り腕を振り下ろしてみたいと彼は祈った。

 術後、トレーニングを始めてみると、なんだか調子がいい。腕を振ってから球がグーンと伸びるような気がする。やはり決断は間違っていなかったのだ。ところがである。

「あのときがピークでした。それから手術前のボールに戻ることは一度もなかったんです」

 肩の痛みは消えず、球威は一向に戻らず、自分の気持ちをどう奮い立たせていいのか分からない。プロ野球選手になって19年目の夏、彼は初めて所属先のない浪人生活を送ることになった。お盆になり、京都成章高時代の同輩の墓参りに出かける。墓石を磨きながら彼は友に語りかけた。

「もう無理やぁ、もうええやろ、もうやめるわ……」

 引退報告をする人の顔まで思い浮かべた。帰り道、幼なじみから電話が入り、パチンコ屋で落ち合うことになる。ところがそこは、大家のオトンが死ぬ前に最後に玉を弾いた店だった。

高校の後輩とナックルを磨く

2010年、NPBで16年ぶりの白星をマーク。この翌年、右肩にメスを入れた 【写真は共同】

 そんなころである。突然、彼はナックルボールを投げ始めた。最初はほんの冗談のつもりだった。当初は人さし指、中指、薬指と3本の指をかけていた。徐々に本気度が増し、数カ月後には2本指に変え、ある日、その球は無回転のままキャッチャーミットに収まった。

 4年半の間、大家のナックルのキャッチボールの相手をした高校の後輩の丹波誠己は、投げ始めたころ、こう話している。

「ナックルボールは技術の塊だと思うんです。普通の球のように140、150キロ出るわけではないですから。通常はバックスピンがかかって、揚力が生まれますよね。でも、ナックルの場合は回転しても1回転未満ですから、メチャクチャ空気抵抗を受けます。バッターの手元に来て、プッと浮き上がる感じ。これはもう職人芸ですよ。もともとツーシームやカットボールとか、バッターの手元でグニャグニャとボールを動かすのを得意とした人ですから。理想は実戦で投球の9割、ナックルを投げ込むことです」

 本場アメリカでも、“Nobody Trusts Knuckleball(ナックルボールなんて誰も信じない)”と言われ、ナックルボールは「惑いの球」として敬遠されてきた。投げた本人はもとより、その軌道は予測不可能であるから非常にキャッチャー泣かせであり、好んで捕りたがる者はいない。丹波はその球をさばくだけでなく、やがてキャッチボールの返球をナックルで返すようになった。いつかその球が本場で投げ込まれることを夢見て、2人は魔球を磨いた。

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