本田圭佑は日本代表でまだまだ輝ける プレーで示した「落ち着かせ役」の存在感

元川悦子

「悔しい」と何度も繰り返した本田

イラク戦終了後、本田は何度も「悔しい」という言葉を繰り返した 【Getty Images】

 6月13日のワールドカップ(W杯)アジア最終予選・イラク戦は、気温37.4度、湿度20パーセント、標高1200メートルという過酷な環境のテヘラン・パススタジアムで行われた。

 日本は大迫勇也の開始8分の先制弾でリードしながら、井手口陽介、久保裕也、酒井宏樹に立て続けにアクシデントが発生。混乱真っただ中の後半27分に、吉田麻也と川島永嗣に連係ミスが出て、手痛い同点弾を浴びてしまった。何とか追加点を奪おうとするも、消耗のあまり先発メンバー大半の足が止まり、思うように動けない。

 そんな中、背番号4を付ける本田圭佑は最後の最後まで、諦めずにボールを追い続けた。

 本田自身も疲労困憊(こんぱい)だったうえ、流血するほどダメージを負っていたが、すさまじい勢いで相手に寄せにいき、勝利への執念を強く押し出した。そして後半アディショナルタイムには、酒井高徳の右サイドからのスローインを吉田が落としたところにフリーで反応。千載一遇の決定機が巡ってきた。次の瞬間、本田は左足を一閃。だが、シュートはGKモハンメド・カッシドの正面に飛んでしまう。その直後、タイムアップの笛がむなしくスタジアム全体に鳴り響いた。

 本田は自らの足を激しくたたき、チームメートから渡されたタオルをピッチにたたきつけ、悔しさを爆発させた。他の選手がセンターサークルに整列しても合流する余裕は皆無。キャプテンマークを巻いていたことさえ、忘れていたのかもしれない。この男がここまで感情を露(あら)わにするのは本当に珍しい。

「悔しいですけれど、仕方ないです。切り替えました」と報道陣の前に現れた時には平静を取り戻していたが、悔しいという言葉を何度も何度も繰り返した。そうすることで、本田は自分自身を必死に落ち着かせようとしていたのだろう。

序盤からゲームを掌握、右からの仕掛けが脅威に

本田は試合序盤からゲームを掌握。酒井宏との右からの仕掛けは脅威になっていた 【Getty Images】

 2016年10月11日のオーストラリア戦(ドックランズスタジアム)を最後に、最終予選3試合でスタメン落ちを強いられた本田にとって、このイラク戦は今一度、自らの存在価値を示す重要な一戦だった。

 長谷部誠がけがで長期離脱を余儀なくされているうえ、7日のシリア戦(東京スタジアム)で香川真司が左肩を脱臼。山口蛍も右すねを痛めるなど、中盤が人材不足に陥る中、ヴァイッド・ハリルホジッチ監督は4−3−3から従来の4−2−3−1へのシフトを決断した。中盤を遠藤航、井手口、原口元気の三角形にし、右FWの本田に攻守の起点としての働きを求めた。

 予想された中盤での起用ではなかったが、「これだけ暑いので、攻守においてコントロールしないといけない。監督は速攻のような形を作れと言うかもしれないけれど、それで自爆しないように。自分たちのペースで、相手を走らせる戦い方が重要になる」と背番号4は強調。指揮官とも話し合いを重ねて、自ら右サイドでタメを作りながら、緩急やメリハリのあるゲーム運びをするつもりで、大一番を迎えた。くしくも同日は本田の31回目の誕生日。キャプテンマークも託され、より大きな重責と覚悟を持ってピッチに入った。

 その思惑通り、本田は序盤からゲームを掌握した。開始早々の5分に酒井宏と絡み、最終的に大迫がフィニッシュに持ち込んだ決定機を皮切りに、次々とチャンスを作る。大迫の先制弾も本田の右CKから生まれた。

「圭佑さんのサイドでチャンスは作れた」と大迫も前向きにコメントした通り、前半の攻撃は右からの仕掛けがほとんどだった。

「ここ(テヘラン)に着いてから、圭佑君とはすごくしゃべりましたし、僕らだけでも守備の形、攻撃の形を決めておけば右サイドは崩せる。実際に僕の感覚としては、うまくいった方だし、何度も崩すことはできました」と縦関係に位置する酒井宏樹も手ごたえを口にした。後半32分に酒井宏が負傷交代するまで、2人が脅威になっていたのは確かだろう。

決定機は作るも、勝利へ導く仕事は果たせず

最終予選において、本田のゴールは初戦のUAE戦のみ(写真はUAE戦のときのもの) 【Getty Images】

 前半30分すぎに設けられた吸水タイムには、ハリルホジッチ監督が本田を呼び、身振り手振りの激しい指示で対面に位置するイラクのキーマン、アリ・アドナン(6番)のマークを徹底させるシーンが見られた。

 話に加わった酒井宏は「6番が無理やり上がってくるので、誰か1人を付けるということだった。センターFWも2枚いたので、自分もカバーに入らなくてはいけなかったので、圭佑君が主に(6番を)見るようにした」と説明したが、その後は本田と酒井宏のマークがより明確になった。中盤が不慣れな組み合わせで、左サイドの久保と長友佑都の縦関係も初めてだったため、右サイドが攻守両面でチームを支えていたといっても過言ではない。

 後半に入ると、本田がより中に絞ってボールをキープする形が増えてきた。本田の縦パスを原口が受け、大迫にスルーパスを出した10分のチャンスなどは、本田が中央でプレーするようになった効果だろう。このリズムで最後までいければよかったが、経験豊富な背番号4といえども、その後の度重なるアクシデントから派生した負の連鎖を止めることはできなかった。

 失点場面を振り返ると、久保と酒井宏が両方痛んで動けない状況にもかかわらず、アラー・アブドゥルザフラ(10番)の突破を遠藤も昌子源も止め切れず、ペナルティーエリア深い位置まで侵入を許した。それでも吉田がシンプルにクリアしていたら、事なきを得たはずだったが、川島にキャッチさせようとしたことで歯車が狂った。結果的にモハナド・アブドゥルラヒーム・カッラル(8番)にボールを拾われ、マフディ・カミル(19番)にゴールを奪われた。本田は一連の流れに直接関与はしていなかったが、どこかでチーム全体をコントロールし切れなかった不完全燃焼感を覚えたに違いない。

 終盤の猛攻でも自身のFKやゴール前の決定機は何度かあったが、日本を勝利へ導く仕事は果たせなかった。アルベルト・ザッケローニ監督体制で戦った4年前の最終予選は本田が大半の勝負どころで得点を奪い、大黒柱として君臨してきたが、今回は初戦のUAE戦(埼玉スタジアム2002)で1点を挙げたのみとなっている。

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著者プロフィール

1967年長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに。Jリーグ、日本代表、育成年代、海外まで幅広くフォロー。特に日本代表は非公開練習でもせっせと通って選手のコメントを取り、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは94年アメリカ大会から5回連続で現地へ赴いた。著書に「U−22フィリップトルシエとプラチナエイジの419日」(小学館刊)、「蹴音」(主婦の友社)、「黄金世代―99年ワールドユース準優勝と日本サッカーの10年」(スキージャーナル)、「『いじらない』育て方 親とコーチが語る遠藤保仁」(日本放送出版協会)、「僕らがサッカーボーイズだった頃』(カンゼン刊)、「全国制覇12回より大切な清商サッカー部の教え」(ぱる出版)、「日本初の韓国代表フィジカルコーチ 池田誠剛の生きざま 日本人として韓国代表で戦う理由 」(カンゼン)など。「勝利の街に響け凱歌―松本山雅という奇跡のクラブ 」を15年4月に汐文社から上梓した

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