異色の逆輸入右腕・村田透の率直な思い 7年ぶりの日本球界復帰で「恩返しを」

週刊ベースボールONLINE

6年の米国生活を経て、今季から日本ハムでプレーする村田 【写真:BBM】

 輝かしい栄光の陰で屈辱にもまみれた。それでも野球への情熱は尽きることなく、自分の信じた道を真っすぐに歩んできた。あくなきチャレンジ精神で切り開いてきた紆余曲折の野球人生。7年ぶりの日本球界復帰となった異色の逆輸入右腕・村田透(北海道日本ハム)の現在地に迫った。

日本ハムは僕のことを必要としてくれた

 巨人のドラフト1位として2008年にプロの門をたたいたが、1軍登板なく10年オフにわずか3年で戦力外。失意のどん底に落とされたが、トライアウトを経てインディアンスとマイナー契約。3Aで着実に結果を残し、渡米5年目にはメジャーのマウンドにも立った。そのハングリー精神と経験値は、日本一連覇を狙う若いチームに新たな化学反応を起こしてくれるはずと指揮官も大きな期待を寄せている。

──7年ぶりの日本球界復帰。ペナントの開幕に向けて、率直にいまはどんな気持ちですか。すごく楽しみなのか、不安なのか。

 いまは楽しみになってきました。最近になってようやく(笑)。

──というと……それまでは楽しみではなかった?

 はい(苦笑)。アリゾナから二次キャンプで名護に入ったところまでは自分でも順調に来ていたと思っていたんですけど、国頭での紅白戦(2月18日)でそんな自信は一気に消え去りましたね。やっぱり日本の軟らかいマウンドに対応できなくて、もうメチャクチャ。平静を装っていましたけど「オレはもう野球選手としてダメかな」と正直思っていました。

──結果としては2回を投げて1安打、1失点でしたけど、自分の思い描いていたボールを投げることができなかった?

 全然ダメですね。もう少しマシなボールを投げられると思っていたんですけど。それでもああいった試合をシーズン前に経験できたのはよかったのかなと。そこで日本の野球に対応するには何が必要なのか、自分はどんな練習をしなければいけないかが分かったので。

──いまはもう不安はない?

 100パーセントないとは言えないですけど、それでもマウンドへの対応もコーチにアドバイスをもらいながら改善もできているので。「よっしゃ、これで勝負できるぞ」という感じにはなってきました。

──実際に入った日本ハムというチームはいかがですか。

 本当にそこに関してはチームに溶け込みやすい雰囲気を栗山(英樹)監督をはじめ、みんながつくってくれたので。まったく問題なく入れたかなと思っていますし、すごく感謝しています。

──チームメートの顔はもう覚えられましたか。

 そこもマウンドと一緒で、ようやく(笑)。それでもフルネームまでは分からない選手もまだいますけど、顔と名前は一致してきました。

──ちなみにアメリカでプレーしていたときは日本の情報などを逐一チェックされていたのですか。

 渡米して最初の1年か2年ぐらいはそういう情報も把握していましたけど、それ以降は正直ほとんど分からないです。だからパ・リーグにどんな選手がいるのかも、これから選手名鑑とかで猛勉強しなきゃです(笑)。

2月18日の紅白戦では思い描くボールを投げられなかったが、徐々に日本のマウンドに対応している 【写真:BBM】

──6年間に及んだアメリカでの生活に区切りをつけたわけですが、もう少しやりたかったという未練はなかった?

 もちろんありましたよ。それでも日本ハムは昨年のオフだけでなく、その前からも声を掛けていただいていたので。本当に僕のことを必要としてくれているんだなと感じましたし、さらに野球をやれる環境を考えて最終的に決断しました。

──ゆくゆくは日本球界に戻ってきたいという思いはあったのですか。

 やっているときはアメリカで成功することだけしか考えてなかったですね。まあ、逆に巨人にいたときは自分が数年後にアメリカに行くなんて想像もしてなかったですけど。

──08年にドラフト1位で入団しながら、わずか3年で巨人のユニフォームを脱ぐことに。

 そうですね……でも、悔しいというよりは、消化不良みたいな感覚だったんですよね。1軍で一度も投げなかったわけですし、そこで壁にぶつかったわけでもなかったなかでの戦力外だったので。だから最初は自分の気持ちと向き合うのが大変でしたよね。

──そこからトライアウトを経て、インディアンスと電撃的にマイナー契約を結んで渡米。6年間の月日はどんな日々でしたか。

 もうそれはアメリカに行かないと経験できないことばかりでしたし、一生の財産になりました。シーズンオフにはウインター・リーグでパナマやベネズエラにも行かせてもらいましたし、新たな野球観も生まれましたから。まあ、それでも最初は言葉も通じないですし、カルチャーギャップも含めて大変なこともたくさんありましたけど。

──その中で野球をやめようと思ったことはなかった?

 それは一度もないですね。「こんなところで試合ができるのか」というところにも行きましたけど、それでも大好きな野球をやらせてもらっていたので。あとは日本で結果を残せなかった分、絶対にこっちで結果を出すんだという思いもありましたから。それに「チャレンジしてこそ村田かな」と思ってずっとやってきたので。その気持ちを胸にいつも戦っていました。

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