自分の経験を活かしてロンドンに挑みたい 川内優輝が綴る「対世界」への本音(2)

構成:スポーツナビ

世界の概念は「五輪や世界陸上」だけではない

“世界で戦う”という言葉には、いろいろな意味を持つ。世界のマラソン大会に出場することも含意の1つだ 【写真:ロイター/アフロ】

(“世界で戦うマラソンランナー”の意味は)福岡では先述したようなさまざまな幸運(※)が重なったことで奇跡的な走りができましたが、そもそもケガをした状態で絶望的な気分でしかスタートラインに立てなかったことはアスリートとして失格と言われてもおかしくない状況でした。ですので、しっかりと実力を発揮するためにも世界陸上までは練習を休むようなケガを絶対にしないということが強化よりも何よりも一番大切なことだと思います。このケガをしないというベースさえ、しっかり維持できれば、あとは頭の中で思い描けている理想のマラソン練習にどれだけ現実を近づけていくための努力をすることができるかだけが目標達成のための鍵になってくると思います。
「世界とは何か」と考えたとき、少なくとも3つの概念があると思います。

 1つ目の「世界」は「五輪や世界陸上」、2つ目の「世界」は「世界記録」、3つ目の「世界」が「世界中の国際マラソン」です。

 多くの日本人選手にとって「世界で戦う」と言う時には、1つ目の概念だけしか頭の中にはないように思います。「目標は五輪でメダルを取ることです」と言う選手たちは多くても「目標は世界記録を樹立することです」と言う選手は圧倒的に少なく「目標は世界中の国際マラソンを転戦することです」と言う選手にはほとんど会ったことがありません。

 このように「世界」と言った時に1つ目の「五輪や世界陸上」という概念だけしか頭の中にはないにも関わらず、「世界」と日本人が戦えない理由として最もよく挙げられることは2つ目の概念ばかりです。つまり「世界は2分台や3分台を出しているのに、未だに日本人は6分台の日本記録も更新できない」という意見です。そうした意見は、2分台を出した選手は世界で1人だけで、しかも1回だけということや、4分を切った選手は非公認コースのボストンを含めても10人だけで、ベルリン、シカゴ、ロンドン、フランクフルト、ボストンの5大会のみということをわかって言っているのだろうかと感じます。

「勝負」のために「記録」がいいにこしたことはありませんが、「記録」だけでは「勝負強さ」はわからない部分があります。世界記録やそれに近い記録はペースメーカーが一定ペースで少なくとも中間点まで、場合によっては30キロまで引っ張ったことによって「作られた記録」ばかりです。実際にドバイで1回だけ4分台で走る無名の選手は毎年のように登場しますが、現在の世界トップレベルの選手のように2回、3回とそうした記録を重ねていく選手はそれほど多くはありません。

「スピード」よりも「切り替え」対応がメダル獲得に近づく

 また、パリやアムステルダムのようなメジャーなレースであっても6〜8分台が優勝タイムの時も数多くあります。また、16年のリオ五輪は持ちタイムが良い選手が順当に勝ったと思いますが、ベルリン、テグ、モスクワ、北京の直近の世界陸上4大会や12年のロンドン五輪はそうではないと思います。

 例えば、アベル・キルイ選手(ケニア/09年ベルリン、11年テグ世界陸上・金メダリスト)は2時間5分台のタイムを持っていますが複数回ではありません。セカンドベスト以降は何回走っても日本記録よりも30秒以上遅いタイムです。ウガンダのスティーブン・キプロティッチ選手(12年ロンドン五輪、13年モスクワ世界陸上・金メダリスト)とエリトリアのギルメイ・ゲブレスラシエ選手(15年北京世界陸上・金メダリスト)も自己記録は日本記録よりも遅いタイムです。そのように考えると「五輪や世界陸上」でメダルを長年獲得できない理由を「タイム差」のせいだけにすることは無理があるのではないかと思います。

「金メダル」を獲得するためには今の日本人選手では記録が足りないかもしれません。しかし、「メダル」であれば日本人選手が対応できないような自己記録が結果に直結する「高速レース」にはなっていないと思いました。この傾向は11年に私がテグ世界陸上で日本代表になった時から何年もの間、大きくは変化していないように思います。よく言われるような自己記録という数字で判断する「スピード」よりも、数字に表れてこない(実際にはレース中盤のラップタイムを見ると表れていますが)「レース途中の小刻みなペースアップと中盤から終盤にかけてのスパート合戦に食らいつく能力」の方がメダル獲得のために日本人が強化すべき部分であると私はずっと考えてきました。

 そうしたことから、13年の東京マラソンの前田和浩選手(九電工)の走りが五輪や世界陸上でメダルを獲得するために日本人が目指すべき走り方に一番近いと思っています。過去数年間に7分台、8分台のタイムを多くの日本人選手が記録してきました。しかし30キロからのスパート合戦で5キロのラップタイムを14分39秒まで上げることができたのは前田選手だけです。

 リオ五輪で米国のゲーレン・ラップ選手が銅メダルを獲得したので、10000メートルのロンドン五輪銀メダルなどのスピードランナーとしての実績から、「やっぱり日本人もマラソンで戦うためには26分台のスピードが必要なんだ」と言う人も増えました。しかし、実際にはラップ選手は25キロから30キロは14分26秒までペースアップしたものの次の5キロは優勝したエリウド・キプチョゲ選手(ケニア)に大きく引き離されて15分31秒まで落ちています。つまり、先述の前田選手のように30キロからの5キロ毎のラップを14分39秒でカバーできれば35キロ地点でリオ五輪のラップ選手とは13秒差です。

 35キロからの5キロを粘って15分18秒以内で走ることができればメダル圏内のレースだったのです。30〜40キロを29分57秒、つまり1キロ3分弱のペースで押していくことは「高速レース」ではありません。世界ハーフマラソンでよく見られるように突然5キロのラップが13分45秒に上がって、しかもそれに何人もの選手が食らいついていくようなレースが「高速レース」です。そうした状況にマラソンはまだなっていませんので、五輪といえども今の日本人選手のスピードでもメダルであれば十分対応可能ではないかと思っています。季節が違うとはいえ、タイムだけを見れば、13年の前田選手がそうした走りをしているのですから。しかも07年の大阪世界陸上の頃のように10000メートルを27分台のスピードがあった頃の前田選手ではないのです。

 金メダルだけを目指すのであれば万全を期すために「高速レースに対応するためのスピード強化」も必要だと思いますが、他の色のメダルを目指すのであれば単に自己記録に表れるようなスピード強化をすることよりも終盤に「14分40秒」に切り替えて次の5キロを「15分」で耐える訓練をする方が、メダルへの近道だとテグ世界陸上の頃からずっと考えていました。その考えを改めて裏付けてくれたのがリオ五輪の男子マラソンだったように思います。

市民ランナーに引退はない! 生涯現役で走り続ける

 ただ、多くの日本人選手と違って、私にとっての「世界で戦う」という概念は1つ目の「五輪や世界陸上」だけではありません。私には3つ目の「世界中の国際マラソン」という概念が強くあります。12年の東京マラソンで失速し、「世界中のマラソンレースを転戦して勝負強くなろう」と決意した時点では他の日本人選手と同様に1つ目の世界の概念も強かったと思います。しかし12年4月のデュッセルドルフマラソンを皮切りに何十もの海外マラソンで戦っていき、現地在住の日本人の方々にも応援して頂く中で、「世界で戦うということは五輪や世界陸上で戦うだけではなかった。世界中には本当に数多くの素晴らしいマラソンがある。他の日本人選手がそうした世界で戦わないのなら自分がそうした世界で先陣を切って戦っていこう」という気持ちが強くなっていきました。

 そうした戦いの中でジョサイア・チュグワネ選手(南アフリカ共和国/96年アトランタ五輪・金メダリスト)やスティーブ・モネゲッティー選手(オーストラリア)、ロバート・ド・キャステラ選手(オーストラリア/83年ヘルシンキ世界陸上・金メダリスト)にビル・ロジャース選手(米国)などのいわゆる「レジェンド」とも数多く現地でお会いしましたし、多くの外国人選手達とも国内外のさまざまな大会で競い合うことで知り合いやライバルになりました。

 ですので、私が17年のロンドン世界陸上でマラソンから引退すると思っている方も多いですが、猛暑で戦わなければならない夏の日本代表を狙わないだけであって、「世界との戦い」をやめる訳ではありません。環境の許す限り、体力の続く限り、「世界中の国際マラソン」で世界のライバル達と戦っていきたいと思っています。

 ケガで苦しんだ高校生の頃からずっと私の将来の夢は五輪でも世界陸上でもなく、「日本全国の市民マラソンを巡ること」でした。けれども結果的に世界陸上に出場できるレベルの選手になれたことで、招待選手として費用負担なく海外を転戦できるようになり、高校生の頃の夢を「日本全国・世界各国のマラソンを巡ること」にグレードアップさせることができました。だから、私は生涯現役で日本中・世界中のマラソンを一生走り続けること、そんな人生を送りたいので、日本代表を狙わなくなってもマラソンから引退する気持ちはまったくないのです。「自ら戦うことを放棄しない限り、市民ランナーに引退はない」という言葉がありますが、まさにその通りの人生を歩み続けたいと思っています。

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