人材のプロが大分の経営に関わる理由 1期生・神村昌志氏「JHCで得たもの」
JHCの1期生で、今年5月に大分トリニータの経営改革本部長に就任した神村昌志さんに話を聞いた 【宇都宮徹壱】
Jリーグが2015年に立ち上げたJHCは今年9月、一般財団法人スポーツヒューマンキャピタル(SHC)として新たに独立し、競技の枠を超えて将来のスポーツ経営を担う人材の開発と育成を担う法人組織となった。村井満チェアマンの肝いりでスタートした前身のJHCは、その1期生に中田浩二氏や堀之内聖氏、黄川田賢司氏といった元選手が含まれていたことでも話題になった。そんな中、異彩を放っていたのが、今回ご登場いただく神村昌志さん。神村さんは、今年5月から大分トリニータの経営改革本部長に就任しており、1期生の中では最も早くプロクラブの経営の第一線に立つこととなった。
実は神村さん、リクルートを振り出しに人材ビジネスの世界で30年活躍してきたプロフェッショナルであり、企業の上場や社長・会長職の経験もある。現在、54歳。1期生の中では最年長である。それにしても人材ビジネスの世界で功成り名遂げて、そのまま「上がり」となってもおかしくないキャリアを持ちながら、なぜ神村さんはスポーツビジネスという新天地に飛び込むことになったのだろうか。今回は、SHC理事でJリーグのJHCグループ グループマネージャーでもある中村聡さんにも同席していただき、神村さんのこれまでのキャリアと大分で実現させようとしていることについて話を伺うことにしたい。(取材日:2016年12月11日)
「何の迷いもなく」大分の経営現場へ
大分は今シーズンJ3で優勝し、来季のJ2昇格を決めた 【(C)J.LEAGUE PHOTOS】
神村 リーグの終盤、特に最後の5試合の勢いはすごかったですね。序盤とはまったく違ったチームに見えました。ずっと栃木SCさんを追いかける展開で、一時は勝ち点差が9まで開いていましたから「2位狙いでいくしかないか」と思っていたんですけれど、それが見事にひっくり返りましたよね。やはり片野坂(知宏)監督のブレない信念というものに、選手たちが最後までついていったということが、このような結果につながったんだと思います。
――神村さんは、今年の5月から「経営改革本部長」という役職で大分に赴任されることになりました。これは神村さんのために作られた役職ということですが、まったく縁もゆかりもなかった大分に行くことになった経緯を教えていただけますでしょうか。これはSHCの中村さんにお聞きしたほうがいいですかね?
中村 そうですね。まず今年の1月くらいに、大分の榎(徹)社長から「クラブの経営を変えてくれる人を探している」というお電話をいただいたんです。現役の経営経験のある方で、大分にご縁がなくて構わないので、違うところから新しい風を吹かせてくれる人材はいないかと。
――それでJHCの1期生で条件に合致したのが神村さんだったわけですね。この話が来た時、神村さんはどう思ったのでしょうか? 不安はありませんでしたか?
神村 何の迷いもなく「やります」と言いましたね(笑)。会社経営は10数年やっていましたが、スポーツ業界での経験はないし、簡単に「やらせてください」と言ってやらせてくれる話でもないですから。大分の経営が大変だということへの不安や恐れといったものもありませんでした。こういうお話をいただく場合、決まって経営がうまくいっていないから僕が必要とされるわけですから。
――かくして、5月に大分に行きました。最初に着手したことは何だったんでしょうか?
神村 まずは1対1の社員との面談です。それでも30人弱の会社で、オフィスはひとつしかありませんから、1週間くらいで様子が分かります。それで、1カ月くらいしてから全社員を集めて「この会社は何が問題なのか」という話をしました。(スマホの写真を見せながら)私はパワーポイントが使えないので、こうやって模造紙に書くような感じでね。
――まずは意識改革の部分ですよね? 社員の反応はいかがでしたか?
神村 どうでしょうね。一番うなずいていたのは社長でした(笑)。僕の仕事は、ぽっと石を投げて波紋を広げるようなことをしますけれど、最終意思決定をするのは社長の仕事です。そのリーダーシップがあるからこそ、多少なりとも大分のフロント改革は少しずつ前に進みつつあるんだろうなと思っています。
米国での経験・上場、そしてJHCへ
神村 ありましたね。大学が英文科で英会話クラブだったこともありますけれども、海外で(仕事をしたい)というのは意識としてありました。赴任したのは、リクルート初の海外拠点だったロサンゼルス。そこで米国で学ぶ日本人留学生、特にMBA(経営学修士)の人たち向けの求人情報誌を作っていました。当時はもちろんインターネットがなかったので、ダイレクトメールで送っていたんですね。
――ロスでの任期は7年に及んだそうですね。けっこう長かったのでは?
神村 長かったですね。結局、86年から92年まで向こうにいました。その間に「リクルート事件」があったわけですが、向こうでも人種差別を理由に訴えられる事件があって、裁判のハンドリングを僕1人がやらなければならなかったんです。米国での採用は当然のことながら、人種差別関連の問題はものすごくセンシティブなんです。そこで僕らがオペレーション上のミスといいますか、不手際があって、「人種差別を行っている」という報道がなされてしまった。大変な経験ではありましたが、雇用における法律の違いをどこまで気をつけなければいけないのかというあたりは、ものすごく勉強になりましたね。
――その後、92年に帰国されて、その年の末にリクルートを退社。外資系のお仕事を経て、JACジャパンという人材紹介の会社に入社されました。03年に代表取締役に主任されて、3年後にはジャスダックに上場を果たします。すごいキャリアアップですね(笑)。
神村 代表取締役になったのは03年ですが、その3年前くらいから役員として会社の経営は見ていました。まあ、社員20人くらいの小さな会社でしたから、抜てきというほどのものでもありませんでしたが。その後、JACの代表を08年に退任して、アイ・アムというこれも人材紹介会社の代表取締役になったんですけれど、アイ・アムとインターワークスが合併して、アイ・アム&インターワークス(現インターワークス)となりました。私はそこで会長職に就いたんですね。
──その会長職を昨年に退任されます。理由はなんだったんでしょうか?
神村 昨年の6月末の株主総会で、インターワークスの役員を退任することが、その前の年には決まっていました。会社の上場も決まりましたし、若い社長へのバトンタッチも済んでいる。私自身、やるべきことはやったし、同じポジションにしがみつきたいとも思わなかったので、これからは何か違うことをやろうと思ったんです。そうしたら、たまたま読んでいた日経新聞にJHCのことが書かれてあって、「ああ、村井さんが何か始めるんだな。これは面白そうだな」と思って、まずは募集説明会に行ってみようと。