かつての個性派FWは人を切れない監督に 藤枝明誠が選手権で目指す超攻撃サッカー

中田徹

今も鮮やかに記憶に残るオーバーヘッド

スキポール空港でインタビューに応えてくれた藤枝明誠サッカー部の松本安司監督 【中田徹】

 第66回全国高校サッカー選手権は1988年1月の開催だったから、もう30年近く前のことになる。それでも四日市中央工業のストライカー、松本安司が3回戦の古河一戦で決めたオーバーヘッドシュートは、今も鮮やかに記憶に残っている。眼光鋭い目、整った髪。個性の強いストライカーだった。

 その松本が私の目の前にいた。自身が監督を務める藤枝明誠サッカー部2年生が修学旅行でオランダを訪れ、帰り際のスキポール空港でインタビューに応えてくれたのだ。目は穏やかになり、口調にも優しさが溢れ出ている。

「もう帰りたくない。帰り際、いつも僕は『パスポートをなくした』とか言いたくなっちゃう。子どもたちが異国の文化に触れるのが良いですよね。普通なら経験できない旅行をやらせてもらっています。将来、子どもたちが『もう一回、オランダに来てみたい』と思ってもらえるといいですよね」

 卒業生の小澤雄希(元VV SHO。今季でカマタマーレ讃岐の契約が満了)、保坂勇希(VVライソールト)が選手としてオランダに戻ってきたが、松本は指導者として学びにくる生徒も出てきてほしいと願っている。

「大事なことだと思うんです。オランダのサッカー文化を学んできた人たちが、街クラブで組織を作っていくことも、日本サッカーの財産になると思うんですよね」

 ここから口調がだんだん熱を帯びていく。

「私は自腹で先にオランダへ来て、サッカーを学んで、それから藤枝明誠の修学旅行に合流したこともあります。本場のサッカーを学ぶために、(オランダのサッカーに)張り付いて勉強するんだったら、私はいくらお金をかけても構わない。そういう気持ちを持った子たちが卒業生から出てきてくれて、やがて日本に帰ってきて藤枝明誠のサッカー部や、うちのジュニア、ジュニアユースを指導してくれたり、教師として活躍してくれたらうれしいですよね。そうしたら、修学旅行をやったかいもあったというものです。しかし、みんな選手として憧れちゃうもので……」

浦和でプロになり、藤枝ブルックスで現役を終える

 松本自身は高校卒業後、日本リーグの強豪チーム、三菱重工業サッカー部に入り、Jリーグが始まると浦和の一員としてプロになり、藤枝ブルックスで現役を終えた。選手としての経歴を持っているだけに、松本の言葉には説得力がある。

「93年にJリーグができたこともあって、子どもたちはどうしても『プロのサッカー選手になりたい』となっちゃう。でも、スーパースターなんて『万人に1人』の世界ですよ。僕が子どもたちに言うのは『プロには誰でもなれるんだよ』ということ。中にはバイトをしながら食いつないでいるプロもいる。クラブの組織はプロだから、そこの選手も『プロのサッカー選手』なんだけれど、それはプロとは言えないですよね。

 夢を追うのはいい。だけど夢を追うには、それなりの覚悟と経済的なことが必要になってきます。それを考えてあげられる指導者がどれだけいるんでしょうか」

 藤枝明誠はパスをつなぐ攻撃サッカーを志向している。このスタイルに憧れを持った子どもたちが、毎年40人から60人、サッカー部に入ってくる。今度の新1年生は約80人に膨らむ見込みだ。

「藤枝明誠でサッカーをやりたいという子は、きちんと面倒を見るというスタンスです。だけど、『絶対に全国大会に行く』『絶対にプロになりたい』と言うんだったら、『他のところへ行った方がいいですよ』と父兄にも言います。

 プロになりたい子には『目指して頑張りなさい』とは言いますよ。でも、うちはセレクションをしないし、一線級の選手は来ないから、藤枝明誠に来てもプロになれない可能性の方が高い。2009年に初めて高校選手権に出た時も、Jリーグのジュニアユースから来た選手はいなかった。藤枝明誠は毎年、全国に出られるような学校じゃないんですよ」

引退後の下積み経験から藤枝明誠のコーチへ

 松本の話を聞いていると、ふと不思議な気持ちになってくる。彼の決めたオーバーヘッドは高校サッカー史に残るような美しいものだった。彼は「俺を見てくれ。俺がゴールを決めるんだ」というギラギラしたものが伝わってくるようなストライカーだったのだ。浦和レッズでプロになった以上、「俺はゴールを決めまくってスターになるんだ」という野望を秘めていたのではないだろうか? そんな疑問を松本にぶつけてみた。

「でもね、甘かったね」

 松本は一言、言った。私は「そうですか?」と問い返した。

「高校サッカーであれだけ朝から晩まで練習したって、しょせん、そのレベルだった。やっぱり努力するんですよ。俺は絶対、努力をした自信がある。今の藤枝明誠の3年生より、はるかに俺の方がたくさんボールを蹴ってきた。でも、しょせんね……。限界ってあるじゃないですか」

「それに気が付く時期があるわけですね?」と私は聞いた。

「うん。サッカーで通用しないと分かって、それから社会に出るでしょ。社会に出てサッカーをやってきたやつが、パーンって頭をたたかれる。頭をたたかれた時に『あーあ、サッカーばかりやってきたもので、こうなっちゃったんだなあ』って。それだったら、人としてのことも必要だなと。会社に入ってから、私はクソミソにされましたよ」

 松本は自分が入った会社の具体的な名前を挙げた。そこは損害保険の大企業だった。

「代理店研修制度で入って、独立できた。藤枝ブルックスで引退して、そのまま静岡に残ったけれど、知り合いのいなかった僕は数字を上げるしかないから、ひたすら家の玄関でピンポンを押しながら営業した。すると『保険なんていらない』とかばかにされるんだよ。でも、そういう下積みの経験は大学を卒業したばかりの先生も、若いサッカーの指導者もした方がいい」

 松本は保険の営業をしながら、02年から藤枝明誠SCジュニアユースの指導者もしていた。ある日の夜、藤枝明誠の仲田晃弘理事長と、損害保険会社の支社長から寿司屋に呼び出しを受けた。

「理事長から『お前もう会社を辞めろ。明誠に来い』と言われて、そこでハッと思った。仲田理事長と支社長は大学の先輩、後輩でした。支社長も『辞めた方がいいよ。明誠に行った方がいい』って言うんですよ(苦笑)」

 今は人工芝のピッチを持ち、サッカー部は静岡県内でも名が通るようになった。しかし、松本が藤枝明誠サッカー部のコーチに就いた時、「サッカーにバランスも何もなく、レベルが低いな」と思ったという。環境の整ってない中、小さな灯りを頼りに、自転車小屋にコーンを並べてドリブルをしたり、ボールコントロールの練習をしたり。そんな苦労を昔のOBはしてきた。そういうチームの歴史は尊いものだと松本は言う。

「四中工の30年史を見ると、土がグラウンドに盛られている。最初はグラウンドがなかったんです。その中でサッカー部が立ち上がって、空いてるところでサッカーをやっていたと思うんですよね。歴史なくしてそのチームを語る人は、OBに対しても失礼だと僕は思う。

 オランダだってサッカーに関して100年以上の歴史を大事にしてきた結果、今がある。例えばヨハン・クライフを邪険にして、今やっているわけではない。高校のサッカー部も全く同じことなんです。OBは大事にしないといけません」

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著者プロフィール

1966年生まれ。転勤族だったため、住む先々の土地でサッカーを楽しむことが基本姿勢。86年ワールドカップ(W杯)メキシコ大会を23試合観戦したことでサッカー観を養い、市井(しせい)の立場から“日常の中のサッカー”を語り続けている。W杯やユーロ(欧州選手権)をはじめオランダリーグ、ベルギーリーグ、ドイツ・ブンデスリーガなどを現地取材、リポートしている

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