燕のオールドルーキー菊沢を支えた言葉 『Never Too Late』の精神
12月8日の新入団会見では「プロのユニフォームを着られて、感謝の気持ちでいっぱいです。1年目が勝負だと思っている。1試合でも多く投げたい」と力強く語った菊沢 【写真:BBM】
苦労より、やりたいことをやってきた
「年も年なので、すぐ活躍できないとプロに入った意味がない。プロはとても注目される。立ち居振る舞いとか、見ている方に格好いいと思われる投手になりたいです」
ヤクルトから6位指名された菊沢は、2015年12月から福島・いわき市に本社を置く株式会社相双リテックの軟式野球部でプレー。28歳での入団は球団最年長と長い下積み時代を経ており、プロ入り前は険しい道のりを歩んできた。
小学4年から野球を始め、中学まで軟式野球部だった。秋田高では3年夏に県大会4強。立大へ進み、1年春から東京六大学リーグ戦に登板し、同校の通算800勝達成試合の勝利投手にもなった。だが、3年夏に右肘のじん帯再建手術を受けたのが受難の始まりだった。
傷が治りきらず、大学卒業後は山崎製パンに一般就職。野球から離れるも、1年後に社会人クラブチーム・横浜金港クラブで現役復帰。山崎製パンに2年半勤めたのち、神奈川県藤沢市のバッティングセンターで働いたこともあるという。
プロへの夢を諦めきれなかった青年は14年秋、巨人の入団テストを受験。合格したものの、同年のドラフト会議では指名漏れを経験した。すると年が明けた15年1月に渡米。6月下旬から9月まで月給300ドル(約3万5000円)で独立リーグのサンフランシスコ北部のチーム、ソノマ・ストンパーズに所属。現地でホームステイをしていた。
「苦労したというより、やりたいことをやってきたので。さまざまな経験は生きています。フレッシュさよりも、精神的なタフさを発揮したいです」
知人の紹介で相双リテックに入社。プロの夢は諦めかけていた。「好きな野球を続けるため」に選んだ道。だが結果的には、その決断が閉じかけた扉を開くことになる。
トレーナーに力の出し方、伝え方を学んだ。今年に入って球速は5キロも上がり、軟式ながら最速148キロを記録。変化球はスライダー、カーブ、シュート、フォークを操る。
「投球は真っすぐが軸。スライダーはカウントを取れて決め球にも使えます」