世界と戦った瀬古、名監督にもなった渡辺 箱根を彩った名選手を振り返る

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 新春1月2日、3日に開催される東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)。1920年の第1回大会から、今回で93回目を数える。その歴史の中では、日本の長距離界を牽引した名選手も数多く輩出。創始者・金栗四三の「世界に通用するランナーを育成したい」という志を引き継いできた。

 今回は箱根駅伝を彩ってきた名ランナーを振り返る。

「金メダル確実」だった瀬古利彦

第56回箱根駅伝(1980年)、大学4年次の瀬古利彦。車上から指示を送るのは中村清監督 【写真:山田真市/アフロ】

 1977年の第53回大会から、早稲田大の2区を4年連続で務めたのが瀬古利彦。四日市工高時代から頭角を現し、大学に進学後は中村清監督の勧めですぐにマラソンにも挑戦。福岡国際マラソンを連覇し、80年のモスクワ五輪出場も決めていたが、日本チームボイコットのため不出場となった。「出場していたら金メダルは確実だった」と語り継がれている。

 箱根駅伝では3年次、4年次と連続で区間賞を獲得。「箱根から世界へ」を最も体現した選手だったとも言える。

“花の2区”を彩った渡辺康幸

第72回箱根駅伝(1996年)2区で8人抜きを達成した渡辺康幸。この勢いを生かし早稲田大が往路を制した 【写真は共同】

 同じく早稲田大のエースとして、1993年の第69回大会から4年連続で出場したのが渡辺康幸。当時、早稲田大のコーチを務めていた瀬古氏の指導の元、世界を意識した練習を積み、トラックレースでも世界ジュニアに出場するなど活躍。また箱根駅伝では、1年次に2区を走り、区間2位の走りで先頭を奪うと、総合優勝に貢献。同学年の留学生ランナーであったステファン・マヤカ(山梨学院大)としのぎを削り、激しいレースを繰り返すと、3年次には2区の区間新記録となる1時間6分48秒を樹立。2区を1時間6分台で走った選手は渡辺のほか、村澤明伸(東海大)、三代直樹(順天堂大)、メクボ・ジョブ・モグス(山梨学院大)しかいない。

 卒業後はヱスビー食品に入社し、五輪出場を目指したが、度重なるケガもありその夢は叶わず。しかし、2003年より指導者として早稲田大に戻ってくると、11年には第87回箱根駅伝を含め、出雲駅伝、全日本大学駅伝も制し、史上3校目の大学3大駅伝三冠を達成。名選手にして名監督の称号も手に入れた。

箱根から世界へ羽ばたいた選手たち

3年連続5区区間賞を獲得した順天堂大・今井正人。「山の神」の異名は今井から始まった 【写真:日本スポーツプレス協会/アフロスポーツ】

 2000年代の選手を挙げると、第81回大会(05年)から3年連続で5区区間賞を獲得した今井正人(順天堂大)が“初代・山の神”として名を馳(は)せた。15年には世界陸上北京大会の日本代表の座をつかんだが、大会直前に髄膜炎を発症し、出場はならなかった。

 早稲田大のエースとして活躍し08年北京五輪には現役大学生として出場した竹澤健介、竹澤と同級生で第82回大会(06年)から3大会連続で区間記録(3区、1区、7区)を更新したロンドン五輪代表の佐藤悠基(東海大)など、箱根駅伝での活躍を経て五輪に出場した選手も数多く出ている。

 今夏のリオ五輪では、第87回(11年)と第88回(12年)に2大会連続1区区間賞を獲得した大迫傑(早稲田大)、城西大のエースとして2区を3度任された村山紘太が日本代表としてトラック種目に挑んだのも記憶に新しい。

 今大会には8月のリオデジャネイロ五輪に現役大学生として3000メートル障害に出場した塩尻和也(順天堂大)がエントリーしており、箱根での活躍に注目だ。
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