栗原健太が振り返るプロ入りから引退まで 〜尽きぬ広島愛と東北愛〜

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偉大なる先輩の背中を追いかけた日々

厳しいことで有名な広島の春季キャンプ。朝から晩まで泥にまみれ、プロで戦う地力を蓄えていった 【写真=BBM】

 日大山形高から2000年ドラフト3位で広島に入団した栗原。この年の1位は河内貴哉(国学院久我山高)で、同じ高校生でも注目度はケタ違いだった。栗原自身、やっていけるという密かな自信を持って飛び込んだプロ野球の世界だった。だが、待っていたのは超一流の先輩選手たちと、練習漬けの過酷な日々だった。

──まず、プロ野球の世界はご自身の目にどう映りましたか?

 高卒新人として2軍スタート。「ある程度やれるんじゃないか」と思って入ったわけですけど、春季キャンプで先輩方のスイングや球の速さを見て「レベルが違うな」と思い知らされました。ただ、その中でも何とかしがみついて、1軍で活躍したいという思いを持ってやってきました。その気持ちだけは、引退する瞬間まで持ち続けられました。

──カープといえば、猛練習が広く知られるところですが。

 練習は本当にキツかった。今思えばよくやったと思えますね。僕がルーキーだったころの主力といえば金本さん(知憲、現阪神監督)、野村さん(謙二郎、前広島監督)、緒方さん(孝市、現広島監督)、そして前田さん(智徳、現野球解説者)とそうそうたる面々がいらっしゃいました。すごくお手本になるとともに、そんな方々が猛練習しているわけですから。若い僕らはそれ以上やらないと追いつけないわけです。洗礼を受けたという意味では、やはり練習量ですね。手にマメができて痛い。それでも振らなきゃいけない。加えて連日の特守で足腰はガクガク。高校で猛練習をやったつもりでいましたけど、全然違いましたね。毎日顔を合わせる打撃コーチ、守備走塁コーチが、冗談抜きで鬼に見えました(笑)。

──厳しい練習を乗り越えて、身も心も赤ヘル軍団と一体になりました。15年のシーズン後に広島を離れるという決断をしたわけですが、ご自身の中で葛藤はありましたか。

 11年、最初のFAの際に残留を決めたのは、やはりずっとBクラスで悔しさを味わってきたので「このチームで優勝したい」という思いが強かったからなんです。このFA残留の時点では「カープで(現役生活を)終えるのかな」という思いがほとんどでした。そう考えると、広島を出るというのはすごく大きな決断になりましたよね。

──今季、25年ぶりのリーグ優勝を果たしたカープですが、ファンが本当に熱いというイメージがすっかり定着しています。

 ここ数年、結果を残してきていますからね。本拠地は常に満員ですし、2軍の由宇球場にも本当に多くのファンの方が駆けつけてくれていました。僕がいたころ、カープはずっと優勝ができなくて、そして楽天に移籍した今季、25年ぶりの優勝。カープを出た時点で、自分の中で一線を引いたつもりなので、とにかく楽天で頑張ろうという気持ちでプレーしていました。それでも長く所属してきた球団ですし、仲間もいっぱいいますから、やっぱり今季の優勝はうれしかったですよ。

長く過酷な故障との闘い

2004年は90試合に出場して11本塁打とレギュラーに肉薄。オフには結婚し、公私ともに充実したシーズンとなった 【写真=BBM】

 ルーキー時代に力を蓄え、いよいよカープの主力選手へと成り上がっていった。優勝にこそ縁がなかったものの、個人成績はグングンと上昇。08年から2年連続でゴールデン・グラブ賞(一塁手部門)を手にすると、09年には代替選手として途中合流しWBCの優勝メンバーとなる。11年には一塁手部門でベストナイン、ゴールデン・グラブ賞の両獲りに成功。だが、ここをピークに下降線をたどることになる。長年酷使し続けてきた肉体が悲鳴を上げたのだった。

──数々の個人タイトルを手にする一方で、長く過酷な故障との闘いもあったと思います。

 ヒジは3回手術していて、そのほかにも椎間板ヘルニアなどいろいろとありましたね。でも、ケガをしたことについてはまったく悔いがないんですよ。一生懸命練習してきた中でのことですから。ケガを怖れて練習をセーブしていたら、ここまでの結果を残すことはできなかったと思いますから。

──最後に1軍の試合に出場したのは13年。そこから引退までの3シーズン、1軍での試合出場が一度もありませんでした。

 ちょうど13年に初めてAクラス入りを経験できたんです。でも、後半戦はほとんど2軍にいましたから。ほかの選手が1軍で活躍する姿をテレビで見ながら、早く1軍に戻りたいと思っていました。

──それを阻んだのは「変形性右ヒジ関節症」でした。具体的にはどんな状態だったのでしょうか?

 ほかの選手にもあると思うんですけど、長くヒジへの負担をかけ続けると骨が変形して、それが神経に当たって痛みが出る。病院の先生に診てもらうと、「よくこのヒジでやっているね」と感心される(苦笑)。これは投げること、打つこと、両方に影響が出ました。僕は右投げ右打ちで、バッティングの際にはやはり右腕が起点になるわけです。利き腕ですから右の力のほうが強いですし、バットを振るときには最後の押し込みにも使う。右の感覚が繊細なだけに、手術をするとそれが狂ってくる。以来、「なんか違うな……」という違和感がずっとありましたね。思い通りにいかないし、自分の中で怖がっているということもあり、徐々に打撃フォームを崩していきました。

──体がブレーキをかけてしまうという状態ですか?

 自分では100%フルスイングするつもりでも、体が、頭がブレーキをかけてやってくれない。「やってくれよ!」と思うんですけど、こればかりはダメでしたね。

──持ち味はフルスイングですから、それができないのはもどかしい。

 野球選手としては当然のことですけど、フルスイングして全力で走る。これができないようでは、好結果は生まれませんよね。

──日常生活でも支障が出るほどの状態だったのでしょうか?

 重いものを持つ際には気をつけますね。子どもを抱っこするときも自然と左になります。どの動きで痛みが出るかというのは、体が覚えていますから。それを避けるような動きになりますね。万全だったころのヒジがどうだったか……もう分からないです。いまは別の誰かのヒジがついているような感覚で……。

新たに始まる指導者としての道

2015年オフに広島を自由契約になった後、テストを経て楽天に入団。背番号「0」で再起を誓ったが、実現はならず16年限りで現役を退いた 【写真=BBM】

 10月1日、球団事務所で行った引退会見では涙を見せていた栗原。長きにわたり真剣勝負に徹してきたからこそ、その舞台から降りなければならない寂しさは計り知れないものだった。しかし、すでに気持ちは切り替わっている。来季からは楽天の2軍打撃コーチとして、指導者生活をスタートさせる。現役最終年に東北に戻ってくるという不思議な縁。栗原はこの地で第二の人生をスタートさせることとなった。

──結果的にラストイヤーとなってしまいましたが、楽天で過ごした1シーズンはどんなものでしたか?

 ずっと若い選手たちとファームで過ごしましたけど、僕のほうが刺激をもらったり、逆にアドバイスを求められることもあったし。ウエスタンとイースタンの環境の違いも経験することができましたし、来て良かったなと思いました。

──広島での16年間、故郷・東北で過ごしたラストイヤー。それぞれに栗原さんの活躍を期待し、見守ってくれたファンがいたと思います。そんな方々に送るメッセージがあれば聞かせてください。

 広島時代のファンの皆さんの中には、僕が復活した姿を楽しみに待ってくれていた方もいると思うんです。それをお見せすることができないまま引退してしまうことは残念ですけど、少しでも僕のプレースタイルだったり、野球へ取り組む姿勢などが皆さんの心に刻まれているなら、こんなにうれしいことはありません。本当にありがとうございました。またイーグルスファンの皆さんには、1軍の戦力になれず、期待に応えられなかった。申し訳ない気持ちもあります。それでも、2軍の球場でも、たくさんの応援をいただきました。ありがとうございます。あとは僕を応援してくれたすべての人に伝えたいのですが、ケガをしてからは常に頭の中に「引退」の二文字がありながらのシーズンでした。ダメになりそうな気持ちもありましたが、皆さんに勇気づけられてここまでやってこられたので、感謝の気持ちでいっぱいです。本当にこの二文字に尽きますね。

──来季からは楽天で2軍打撃コーチを務めることになります。やはり栗原さんといえばバッティング。そこを鍛え上げるつもりでしょうか?

 またグラウンドに立つ機会をいただいたわけですから、今度は違う立場、指導者として野球に恩返ししていきたいと思います。チームにとっては長打力不足が課題になっています。でも、“栗原2世”を育てるとか、そんな偉そうなことを言うつもりはまったくありません。とにかく、若い選手の良い部分を一つでも多く見つけてあげて、僕も指導者として一緒に成長していければ良いかなと考えています。

(取材・文=富田庸)

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