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カープは必死に戦ってきた
谷村志穂、25年ぶり優勝に寄せて――
25年ぶり7度目のリーグ優勝を決めた広島。マウンド上に一斉に選手が集まった
25年ぶり7度目のリーグ優勝を決めた広島。マウンド上に一斉に選手が集まった【写真は共同】

「カープは必死に戦ってきた」


 原稿のタイトルは、そうしようと決めていた。「戦う」という字を、こちらにしようか、苦難に打ち勝つ方の「闘う」にしようか、迷っているだけで、カープのこれまでのさまざまな場面が浮かんでくるのだった。


 札幌に生まれ育った私がカープファンになったのは、1975年の、カープ初優勝の年だ。多分に母の影響。父は巨人ファンだったが、母はテレビ中継を通して見る古葉竹識監督率いる赤ヘル軍団にいつしか夢中になっていったから、元祖“カープ女子”である。日頃、多くを語るわけではない母の背中は、カープへの溢れる思いを十分に伝えてきて、妹も私も、その思いに同調するかのようにファンになっていったのだ。

 

 私はそれからのファンだが、若い人にはこんな話は嫌かもしれないけれど、それ以前のことを知ればますます、カープは存続しているだけでも奇跡のような球団だと感じさせる。カープを存続させてきただけで、広島の人たちや、マツダという企業をすごいと私は思う。


 球団としての資金が足りないときには、市民で募金をするところから始まった。有り余る資金で、必要な選手はいくらでもかき集められる球団とは、はなから違う。だから、みんなが一枚岩になって、戦ってきたのだ。


 伝説の「江夏の21球」の頃の名選手たちのそれぞれの輝き、津田恒実が闘病で戦線を離脱し、大野豊投手が孤高のストッパーになった頃に、チームに溢れて見えた強い結びつき、カープはいつも必死の中で戦っていた。しかし、選手にはそれぞれの事情があるには違いないのだが、江藤智がFAでカープを離れ巨人へ、金本知憲もいなくなり、その頃から、私にはカープがカープではなくなったような揺らぎを感じるようになった。一枚岩は崩れていき、必死に戦おうにも、ほころびが見えるようになっていった。

 

 カープの選手たちがFAで外に出ていくのは、他球団のそれとはわけが違う。「わしら、広島じゃけぇ」と、ずっと戦ってほしい。だが、歯がこぼれるように出ていく。それは、どうにも切なく映ったものだ。

メジャーからカープに復帰し、大きな力となった黒田(左)と緒方監督
メジャーからカープに復帰し、大きな力となった黒田(左)と緒方監督【写真は共同】

 そんなカープをもう一度立ち直らせてくれたのはやはり、カープで育った選手たちが戻ってきたからだと単純に言ってみたいのだ。


 黒田博樹は、チームへの恩返しと公言し、メジャーリーグからカープへ戻ってきた。余裕綽々に戦うのかと思っていたら、以前よりもさらに必死に戦う男の姿で魅せてくれた。


 緒方孝市監督も、ドラフト3位指名から始まって、カープという球団一筋で育っていった名選手。盗塁王、しかも失敗の極めて少ない盗塁王、巨人・長嶋茂雄監督からの誘いにも、広島の球団やファンへの愛着を口にして、断ったという話が熱く胸に残っている。


 球団の経営も、カープと一緒に育まれたかのように、ますますアイデアがさえている。必死に戦うチームを、必死なアイデアで支えている。

 みんなで一緒になって勝った、そう思わせてくれるチーム、この25年の間だって、ずっと私たちの日々を励ましてきてくれてきたように思う。


 実はこの数年は、私自身は、応援に行くとカープが負けてしまうゲームにばかりぶつかった。チームの勝率よりも3倍以上悪く、今年は友人に「縁起でもないから、家で見ていなさい」と、言われるようになった。


 私がようやく思い切り、大声で応援できたのは、9月に入ってからだ。赤いヘルメットがナイターの照明に反射しながら駆け回っていた。


 泣けた。


 その美しさだけで、泣けた。

谷村志穂
谷村志穂

札幌市生まれ。北海道大学農学部卒業後、雑誌編集者などを経て作家に。2003年、『海猫(新潮社)』が第10回島清恋愛文学賞を受賞。この『海猫』ほか『余命』『尋ね人』など多くの作品が映像化・ラジオドラマ化されている。最新作は『大沼ワルツ(小学館)』。

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