手倉森流“ポジティブシンキング” サッカー五輪代表監督のチーム作り(1)

川端暁彦

手倉森誠監督のポジティブシンキングは生来のものなのか、あるいは努力によって身に付けたものなのか 【スポーツナビ】

“ポジティブシンキング”という言葉がこれほど似合う指導者もいないだろう。深刻なアクシデントを含めて、起こったことを常に前向きな解釈で消化し、次善の策を講じていく。五輪代表での2年半は、まさにその繰り返しだった。一方で、そのポジティブシンキングは生来のものなのか、あるいは努力によって身に付けたものなのかも気になるところだった。

 今回はそんな手倉森誠監督の“人物”にフォーカスし、その独特の思考法を読み解いていく。「運を呼び込むにもポジティブじゃないと。ポジティブな人の下には人が集まってきて運が生まれ、縁も生まれる」という境地に到達するまでの過程と、40歳での結婚から必殺のダジャレに至るまで、その人生観とモットーについてうかがった。

選手時代はものすごくネガティブだった

手倉森監督の周囲の人は「“ポジティブシンキング能力”がすごい」と口をそろえる 【写真:長田洋平/アフロスポーツ】

――協会や周りのスタッフの方に聞くと、皆さん「監督の“ポジティブシンキング能力”がすごい」という見解で一致しています。あれは自然体なのでしょうか、それとも後天的に体得したものですか?

 選手時代はものすごくネガティブな男でしたからね。「なんで俺ばっかり」とか「なんで、あいつなんだよ」みたいなことをよく思ってしまうタイプでした。でもそれって、結局、ねたみひがみですよね。指導者になってから「そういう人間的なところを自分から変えていかないと、いい指導ができない」と思うようになりました。

 ポジティブというより、「正しいところに身を置ければいいな」と思った感じでしょうか。良いことがあればうれしいし、嫌なことがあれば悲しいですよね。でも、そこで揺れ動くのは、勝負の世界に生きる人間としていいことなのか。そんなことをずっと考えるようにしていたら、自然と身に付いたものです。だから自然体ですし、後からそうなったものでもあります。

――リオを目指す過程では、その“後天的自然体”を貫かれました。

 この五輪に至る道は、もしかしたらイライラしてしまうような監督も多かったかもしれませんね。「活動しましょう。でも選手は(所属クラブの都合などで)呼べません」ということの繰り返しでしたから。でも俺はあまり気にしませんでした。誰かが来られないことをネガティブに捉えたり、誰かに対する不満が先に出てしまうと、一緒に仕事をする人たちも面白くないでしょう。ポジティブに考えるというのは、まず相手の気持ちを思いやる、というところから来ているのもありますよ。

――その考えに至ったきっかけは何でしょうか。

 監督になってから、ますます思うようにはなりましたね。勝負運というのは、そういう人しか勝たせてくれないんじゃないかと、そう思うようになりました。

――それはアシスタントコーチの時代が長かったこともあるのでしょうか。

 あると思います。ポジティブに解釈している監督のほうが、成功する可能性が高まるということ。これまでもいろいろな監督の下でやってきましたけれど、やっぱり、ネガティブから入ってダメ出しをしていると、一瞬良くなるときはあるのですが、「長く続かないな」という感触がありました。反面教師として見させてもらった部分もあります。やっぱり監督は一番責任を負う立場です。自分のせいなんです。誰の責任、誰のせいにもできないという立場。そのときに、自分自身がポジ(ティブ)じゃなければ、病気になりますよ(笑)。

――しかし実際、チームには外的要因で悪いことが起きますよね。

 ありますけれど、想定をしておくんですよ。これから起きそうな悪いことを想定しておいて、ポジティブに「どう起こらないように持っていくか」「起こったときはこうすればいいな」とね。監督である自分がポジティブでいると、周りもポジティブになってくれるのは大きいですよね。もしくはネガティブな人がいたとしても、それがひとつのアイデアになる。「でも監督、こんな悪いことが起きたらどうするんですか」と言われても、「お、それもそうだな。よく気付いてくれた」みたいにね。

 そうやって悪いことが想定内になってくると、慌てることがなくなってくる。慌てないからポジティブに変換できる。俺の生きている世界は、勝つか負けるか引き分けの3つしかないですから、だから自分の中では起こり得ることが起きて、すべては想定内。そして「必要なことしか起こらない」という考え方もしています。

――アクシデントに対して「それも縁だよ」みたいな話をよくされますよね。

 運と縁はあると思っています。そして運を呼び込むにもポジティブじゃないと。ポジティブな人の下には人が集まってきて運が生まれ、縁も生まれる。そんなイメージですね。

――逆にネガティブになるのは?

 俺がネガティブになるのは……飲みすぎたときです(笑)。

小さい頃から目立ちたがり屋

仙台にはコーチ時代も含めて、04〜13年まで在籍した(右端) 【写真:アフロスポーツ】

――手倉森監督は青森出身ですけれど、僕らが勝手に持っている東北人のイメージとは違いますよね。僕らがイメージするのは小笠原(満男)選手や柴崎(岳)選手のような寡黙な求道家タイプですが。

 彼らは完全に東北人ですね(笑)。でも俺は小さい頃から目立ちたがり屋でした。弟(手倉森浩氏/日本サッカー協会ナショナルトレセンコーチ)は東北人タイプですけれど、俺は昔からよくしゃべるほうで、人前に出たがるタイプでした。自分でも東北人っぽくないなとは思いますよ。それでも東北を背負っているという自覚はあります。

――東北人というのをすごく意識されたのは、やはり東日本大震災の時ですか?

 震災のときは間違いなくそうですね。あとは(03年に)大分トリニータと(コーチの)契約がなくなってしまったとき、ベガルタ仙台から(コーチの)オファーが来たときには、東北との縁をあらためて感じました。他に条件の良かったところのオファーを蹴ってでも、仙台に戻りたがっている自分がいたんです。その前はモンテディオ山形だったから、本当は(ライバルの)仙台に行ってはダメだったかもしれないんだけれど、(大分を)間に挟んだからセーフでしょう、と(笑)。

――仙台時代はいろいろありましたよね。

 みちのくダービー(サポーターも過熱するライバル山形との直接対決)で3連敗とかね。「手倉森やめろ!」みたいな感じになりかけたんだけれど、その後で3連勝し返しましたからね、山形に。

――手倉森さんはいつもドラマチックですよね。

 ストーリーになるような出来事のほうがいいなとも思います。それはうそとか誇張という意味じゃないですよ。人間味があるような、人との付き合いでしかストーリーはできないですし、監督業というのは、それがやれる仕事だとも思っているんです。選手たちを率いて、サポーターを巻き込んで、スポンサーを巻き込んで、自分の考えているストーリーに乗っかってきてくれる人たちの力で最後に勝てる。それが自分の考え方。そうなったとき、監督が訴え掛けなければいけない人間の数って、めちゃくちゃ多いんですよ。そこでポジティブに発信していくと、みんな耳を傾けてくれるようになります。

――言霊(ことだま)じゃないですけれど、そういう言葉の力はありますよね。

 仲間内には「俺は40歳で監督になって、40で結婚する」と言っていました。そして、その通りになって、さらに結婚する女房に「ベガルタで監督をやったらその後、五輪で監督する」とも言っていました。だから本当に言霊。当時、妻には「何を言ってるんだ」とか言われましたが(笑)。

――40歳でご結婚する予定だったのは何か理由でも?

 28歳でコーチ始めたときに、いきなり監督代行になってしまったんですよ。そして監督ってこんなにしんどいんだと認識させられた。だから「まだまだコーチとして経験を積まなければいけないな」と思い、10年はコーチでいなければと思ったんです。でも、ずっと2番手でいればいいという人生も好きではないので、どこかで勝負したい。40から勝負しよう、と。だから30代のうちは結婚とかなんとかって考えずに、とにかく勉強しようと思ってやっていましたし、それが良かったですね。

1/2ページ

著者プロフィール

1979年8月7日生まれ。大分県中津市出身。フリーライターとして取材活動を始め、2004年10月に創刊したサッカー専門新聞『エル・ゴラッソ』の創刊事業に参画。創刊後は同紙の記者、編集者として活動し、2010年からは3年にわたって編集長を務めた。2013年8月からフリーランスとしての活動を再開。古巣の『エル・ゴラッソ』をはじめ、『スポーツナビ』『サッカーキング』『フットボリスタ』『サッカークリニック』『GOAL』など各種媒体にライターとして寄稿するほか、フリーの編集者としての活動も行っている。近著に『2050年W杯 日本代表優勝プラン』(ソル・メディア)がある

新着記事

編集部ピックアップ

コラムランキング

おすすめ記事(Doスポーツ)

記事一覧

新着公式情報

公式情報一覧

日本オリンピック委員会公式サイト

JOC公式アカウント