サッカーの王様ペレと日本の特別な関係 人生の岐路で関わった多くのジャポネース

沢田啓明

サントスではセルジオ越後の肩をたたいたことも

17歳だったセルジオ越後(右)にサントスで出会ったペレ(左)は、「サトウ、うまいじゃないか」と肩をたたいたことも 【写真:岡沢克郎/アフロ】

 サントスでも、ペレは日系人と縁があった。

 62年末、当時17歳だったセルジオ越後が夏休みでサントスへ遊びに行き、サントスFCのホームスタジアムのそばの空き地で地元の少年たちとボールを蹴っていた。それがサントスFC関係者の目に留まり、サントスFCのトップチームの練習に招待される。

 紅白戦が行なわれ、セルジオ越後が得意のドリブルでレギュラー選手を手玉に取るのを見て、ペレが「サトウ、うまいじゃないか」と肩をたたいた。「サトウ」というのは、バウルーに住む知人の日本人の名前だった。

 当時、セルジオ越後はサンパウロの名門コリンチャンスの下部組織に所属していたのだが、サントスFC関係者から「コリンチャンスを退団してうちへ来い」と誘われる。

 セルジオ越後は、こう述懐する。

「当時のサントスFCは、クラブ世界王者(この年のインターコンチネンタルカップで、ベンフィカを下していた)。ペレら中心選手はブラジル代表としてもW杯で2連覇しており、今ならレアル・マドリーかバルセロナのようなドリームチームだった。キング・ペレから声をかけてもらって感激したし、もし彼らと一緒にプレーできたら、と考えると胸が高鳴ったよ。でも、結局、コリンチャンスが僕を手放さず、サントスFC入りはかなわなかったんだけれどね」

 その後、セルジオ越後はコリンチャンスとプロ契約を結び、64年から65年にかけてトップチームでプレーする。

ペレと一緒にプレーした日系三世カネコ

これまでペレの人生では日本人、日系人と多く関わりがあった。日本に特別な親しみを感じているのは間違いない 【Getty Images】

 セルジオ越後が果たせなかった「ペレと一緒にプレーする」という夢を実現したのが、日系三世のアレシャンドレ・カネコだ。64年、サントスの下部組織に入り、68年初めにトップチームへ昇格。この年3月のサンパウロ州選手権のボタフォゴ(SP)戦で、世界で初めて、公式戦でヒールリフト(両足の間にボールを挟んで踵で体の背後から跳ね上げ、相手の頭上を越して抜き去るプレー)を成功させた。

 カネコは、「あのプレーの直前、ペレがパスを要求する声が聞こえた。でも、聞こえなかったふりをしてヒールリフトをやって、別の選手にクロス。その選手がヒールシュートを決めたんだ」と笑う。

「最近、サントスFCのイベントでペレに会ったら、『カネコ、私はどんなプレーでもできたけれど、ヒールリフトだけはダメだった』と言うんだ。そこで、『あれは簡単さ。でも、私もあんたみたいに1000以上も点を取れなかったけどね』と答えたよ」

 世界サッカーの至宝ペレは、人生を通じて多くの日本人、日系人と出会った。その交流を通じて、日本、日本人、日系人に特別な親しみを感じているのは間違いない。そして、今、「かなわなかった初恋の人」の面影をマルシアさんに見いだしているのかもしれない。

 近年は、健康を害して入院することが少なくない。人生の最終コーナーでめぐり合った伴侶と手を携えて末永く幸せに過ごしてほしい、というのが世界中のサッカーファンの共通した願いだろう。

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著者プロフィール

1955年山口県生まれ。上智大学外国語学部仏語学科卒。3年間の会社勤めの後、サハラ砂漠の天然ガス・パイプライン敷設現場で仏語通訳に従事。その資金で1986年W杯メキシコ大会を現地観戦し、人生観が変わる。「日々、フットボールを呼吸し、咀嚼したい」と考え、同年末、ブラジル・サンパウロへ。フットボール・ジャーナリストとして日本の専門誌、新聞などへ寄稿。著書に「マラカナンの悲劇」(新潮社)、「情熱のブラジルサッカー」(平凡社新書)などがある。

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