リオで「日本の皆さんに恩返しを」 日系ブラジル人ハードラーが秘めた思い
リオ五輪にかける特別な思い
母国開催の五輪に挑む杉町マハウ。日本育ちの日系ブラジル人ハードラーが思いを語った 【加藤康博】
「これでひと安心ですね。ずっと目標にしていましたから。うれしいというよりホッとした感じです」
日系3世の父とブラジル人の母の間に生まれ、8歳で来日。日本で育ち、陸上選手として日本で力を伸ばしてきた。現在31歳の杉町にとって母国で開催される今年のリオは年齢的にもピークとして迎えられる最後の五輪。かける思いも特別だ。
ブラジル人として競技を続ける選択
「本気で400メートルハードルで世界を目指そうと考えたのはその2年後、2006年に日本選手権で2位に入ってからです。この時、初めてブラジル陸連に連絡を取りました。翌年に大阪で世界選手権がありましたので、そこに出るためにはどうすればいいかを確認したんです」
世界大会にはブラジル代表として出たい。これは杉町にとっては自然な感情だった。日本への帰化の手続きについて調べた時期もあるそうだが、その考えもすぐに消えた。実現にかなりの時間がかかるだけでなく「ブラジル人である自分」が変わった姿がイメージできなかったためだ。
「日本人になったら就職が楽だろうなと考えたことはあります。でも今の自分が自分らしいし、これが普通だと思って生きていましたから、変える意味をあまり感じなかったんです。だからこのままでいいなと」
日本のノウハウを最大限に活用
ブラジル人として日本で競技を続けている。写真は15年東日本実業団選手権のもの 【写真:築田純/アフロスポーツ】
「山崎さんをはじめ、いろいろな指導者のところに足を運び、質問をしました。ブラジルの指導者は自分のチーム以外の選手には教えてくれませんが、日本は誰もが親切に教えてくれます。400メートルハードルは選手によって個性が大きく異なりますので、他人からすべてを学べませんが、多くの意見を聞いて、自分に合った技術を得られたと思います」
2007年に大阪で行われた世界選手権はブラジル選手権で2位に終わり、出場を逃したが、翌年の北京五輪は代表の座を獲得。初の世界大会出場を決める。この北京の予選で同走したのが、当時日本のトップハードラーであった成迫健児。同学年ながら日本国内では歯が立たなかった相手に初めて先着し、準決勝進出を決めた。
「成迫選手は自分より速くて目標とする存在でしたが、同時に常に負けたくないと思っていました。ですから感覚的にはライバルでしたね。自分が記憶している限り、この時、初めて彼の前でフィニッシュしました。こうした存在が近くにいたことも自分にとってはプラスでした」
しかし準決勝で敗退。初の五輪は雰囲気に飲まれ、圧倒されたまま終わってしまったというのが率直な印象だ。この舞台に必ず戻ってくる。杉町は北京を後にする際、心に強く誓ったという。