リオで「日本の皆さんに恩返しを」 日系ブラジル人ハードラーが秘めた思い

加藤康博

リオ五輪にかける特別な思い

母国開催の五輪に挑む杉町マハウ。日本育ちの日系ブラジル人ハードラーが思いを語った 【加藤康博】

 5月8日、ゴールデングランプリ川崎・男子400メートルハードル。杉町マハウ(日本ウェルネス)は49秒26のタイムを確認すると天を仰ぎ、両手で大きくガッツポーズをした。リオデジャネイロ五輪参加標準記録(49秒40)を破り、ブラジル代表の座をほぼ手中に収めた瞬間だった。

「これでひと安心ですね。ずっと目標にしていましたから。うれしいというよりホッとした感じです」

 日系3世の父とブラジル人の母の間に生まれ、8歳で来日。日本で育ち、陸上選手として日本で力を伸ばしてきた。現在31歳の杉町にとって母国で開催される今年のリオは年齢的にもピークとして迎えられる最後の五輪。かける思いも特別だ。

ブラジル人として競技を続ける選択

 今でこそ400メートルハードルの選手として知られる杉町だが、もともとは走り高跳びの選手。高校時代にインターハイ5位の成績を残している。しかし日本ウェルネススポーツ専門学校2年の終わりに「遊びのつもりで」400メートルハードルに挑戦。51秒94という思いがけない好タイムで走り、以後、この種目を専門としている。

「本気で400メートルハードルで世界を目指そうと考えたのはその2年後、2006年に日本選手権で2位に入ってからです。この時、初めてブラジル陸連に連絡を取りました。翌年に大阪で世界選手権がありましたので、そこに出るためにはどうすればいいかを確認したんです」

 世界大会にはブラジル代表として出たい。これは杉町にとっては自然な感情だった。日本への帰化の手続きについて調べた時期もあるそうだが、その考えもすぐに消えた。実現にかなりの時間がかかるだけでなく「ブラジル人である自分」が変わった姿がイメージできなかったためだ。

「日本人になったら就職が楽だろうなと考えたことはあります。でも今の自分が自分らしいし、これが普通だと思って生きていましたから、変える意味をあまり感じなかったんです。だからこのままでいいなと」

日本のノウハウを最大限に活用

ブラジル人として日本で競技を続けている。写真は15年東日本実業団選手権のもの 【写真:築田純/アフロスポーツ】

 しかし日本という環境は最大限に利用した。400メートルハードルは山崎一彦(現日本陸連強化副委員長)が1995年イエテボリ世界選手権で7位入賞、為末大が2001年エドモントン、2005年ヘルシンキと2度、世界選手権で銅メダルを獲得するなど日本人が世界の上位で戦ってきた種目。国内にノウハウが蓄積されていた。杉町はそれを積極的に学び、自分の技術に取り入れた。

「山崎さんをはじめ、いろいろな指導者のところに足を運び、質問をしました。ブラジルの指導者は自分のチーム以外の選手には教えてくれませんが、日本は誰もが親切に教えてくれます。400メートルハードルは選手によって個性が大きく異なりますので、他人からすべてを学べませんが、多くの意見を聞いて、自分に合った技術を得られたと思います」

 2007年に大阪で行われた世界選手権はブラジル選手権で2位に終わり、出場を逃したが、翌年の北京五輪は代表の座を獲得。初の世界大会出場を決める。この北京の予選で同走したのが、当時日本のトップハードラーであった成迫健児。同学年ながら日本国内では歯が立たなかった相手に初めて先着し、準決勝進出を決めた。

「成迫選手は自分より速くて目標とする存在でしたが、同時に常に負けたくないと思っていました。ですから感覚的にはライバルでしたね。自分が記憶している限り、この時、初めて彼の前でフィニッシュしました。こうした存在が近くにいたことも自分にとってはプラスでした」

 しかし準決勝で敗退。初の五輪は雰囲気に飲まれ、圧倒されたまま終わってしまったというのが率直な印象だ。この舞台に必ず戻ってくる。杉町は北京を後にする際、心に強く誓ったという。

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著者プロフィール

スポーツライター。「スポーツの周辺にある物事や人」までを執筆対象としている。コピーライターとして広告作成やブランディングも手がける。著書に『消えたダービーマッチ』(コスミック出版)

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