岡崎慎司と先輩が立ち上げたドイツクラブ 渡独する選手が順応するためのサポートを

中田徹

後輩・岡崎から山下への誘い

バサラマインツは10部リーグで優勝し、来季の9部リーグ昇格を果たした 【提供:バサラマインツ】

 マインツの育成指導者だった山下喬(たかし)と岡崎慎司は滝川第二高サッカー部の先輩・後輩の間柄だった。ある日、2人がお茶をしている時、岡崎が「喬さん、マインツでチーム作ることに興味ありませんか?」と尋ねてきた。FSVマインツ05で活躍した岡崎は、町の人から愛されていた。岡崎もまた、マインツのことを好きだった。自分がサッカー選手を終えて日本に帰っても、マインツに来る理由――。それを岡崎は探しているようだった。

 山下には「ドイツでチャレンジしたい」とヨーロッパへ渡ってくる日本人選手のために、いったんドイツのサッカーに順応させるためのクラブを作りたいという構想があった。

 今から13年前のこと。山下はレギュラーの座を奪い切れず、高校選手権を終えた。「絶対にプロになって、みんなを見返してやる」と意気込んでドイツに渡り、最初に入ったのが5部リーグのワッテンバッハというチームだった。日本ではコーチングとプレーの読みに自信のあるセンターバックだった山下だったが、ドイツに来ると「テクニックのある選手」という評価を得て、ワッテンバッハでFWとしてプレーするようになった。

 練習で目立ち試合にも使われていた山下だったが、どうしても活躍できず、やがてレギュラーの座を失ってしまう。ドイツのサッカーに慣れていなかったこと。そしてドイツ語を習得していなかったことで、自身のスキルもコーチング能力も発揮できなかった。2年半をかけてマインツのサテライトチームに入ったが、このスピードをもっと早めることができたはずと山下は思っている。

「僕らみたいな選手がドイツに来た時に、ドイツのサッカーを学べて損せずスタートできる環境を作りたかったんです」(山下)

 岡崎自身もシュツットガルト時代、日本人らしい献身性を見せて、チームの一部として機能してボールを奪ったりしていたが、点を取れないから試合に出られない時期を経験していた。岡崎のようなプロのレベルでも、山下のようなアマチュアのレベルでも、多くの日本人選手がドイツのみならずヨーロッパで最初につまずいていた。

 山下は「日本人だけのチームを作っても、そこからドイツ人だけのチームに移籍したら順応するのにまた時間がかかってしまう。だから選手の半分以上をドイツ人にして、日本人がドイツのサッカーも、ドイツ語も学べるようなチームを作ろう」と提案し、岡崎がこれに賛同した。こうして生まれたのがバサラマインツ。会長は山下。岡崎はアドバイザーになった。2014−15シーズン、ドイツ11部リーグからのスタートだった。

10部リーグで優勝し、9部リーグに昇格

5月15日、バサラマインツはSGシュポンスハイムとのアウェーゲームを3−2で競り勝つ 【提供:バサラマインツ】

 2016年5月15日。SGシュポンスハイムとのアウェーゲームを3−2で競り勝って、バサラマインツは10部リーグ優勝、そして来季の9部リーグ昇格を決めた。

 この試合で2ゴール1アシストを決めたのが、キャプテンの日高拓哉(24)だった。高校時代から、同じ系列の大学のサッカー部の練習に参加していた日高だが、大学入学と同時に監督の交代があり、サッカー部のプレースタイルが守備的になってしまった。日高は大学でサッカーを続ける気持ちをなくし、高校のサッカー部のコーチになった。

 最初は指導者としての喜びを感じていた日高だったが、「自分だったら、こういうプレーをするのに……」というもどかしさが生まれ、「現役に復帰したい」と願うようになった。しかし、後から大学のサッカー部に入部するのは簡単ではない。日高はドイツに渡って、サッカー人生のやり直しに懸けた。5部のチームに入ることもできたが、相談相手の山下から「1つレベルを落として、活躍できるチームに入ったほうが良い」というアドバイスを受け、「絶対スタメンで使うから」という監督の口説き文句もあって、6部のエンゲルハイムに入った。

「最初6部のチームに入った時、正直、周りの技術は高くなかったんです。ちょっと下に見ていて、『何でこいつらとサッカーしないといけないんだ。早くここから抜け出したい』と思っていたんですけれど、やはり難しい物がいろいろとありました。そもそも日本とドイツではサッカーの質が違うから。自分が裏のスペースへ走り込んでも、ボールは出てこない。逆に僕が味方を走らせようと裏へパスを出しても、『どこへパスを出してるんだ!?』と立ったまま。あと、日本人は技術がある選手が“うまい選手”だけれど、ドイツでは試合中に使えるやつが“うまい選手”。キックは下手くそ、足は遅い、でも2メートルあってヘディングが強い選手は、日本の感覚だと『頭だけだし、足は遅いし、テクニックがない』となるけれど、ドイツでは『コーナーを蹴って合わせたら、こいつが決めてくれる』と評価される」(日高)

 今はファジアーノ岡山に所属する秋吉泰佑がドイツに来て、ブンデスリーガ2部、3部のチームのテストを受けて回った時、日高は一緒に付いてサポートした。
「秋吉選手はうまくて、とても衝撃を受けましたが、それでも契約できなかった。3つ年下の僕は3年後、秋吉選手のレベルより上に行かないとドイツでプロになれない。自分は現実主義でサバサバしているところがあるので、プロになることを諦めた」(日高)

 日本に帰って仕事でも探そうかとした時に、山下がバサラマインツを作ることを聞いた。
「喬さんにはドイツに来る時お世話になったので、恩返ししたかった」(日高)

バサラマインツを経由し、ステップアップする選手たち

 チーム立ち上げ時のバサラマインツは、日本人は山下と日高だけ。当時のドイツ人選手は素人を集めて、やっと11人そろう感じだった。得点パターンは山下がボールを奪って日高に横パスし、そこから一気にドリブルしてシュートを決めるというものだった。

 2014−15シーズンの後半戦から日本人選手が4人加わり、11部リーグで優勝した。彼らは半年間だけバサラマインツでプレーし、1人が5部リーグ、2人が6部リーグ、1人が7部リーグとステップアップしていった。その中で5部のショット・マインツに移籍したのが酒井将史(23)だった。

「大学を卒業したらJFLのチームに行けたらなと思っていたのですが、自分は監督のお気に入りの選手になれなかった。それは自分にも問題があったと思うのですが、それでは日本国内で行くチームがない。ドイツがワールドカップで優勝し、バイエルン・ミュンヘンも強かった時期なので、ドイツに行こうとしたら、親が『知り合い、いるよ』となって山下さんとつながり、バサラマインツに来ることになりました」(酒井)

 酒井は大学の卒業式も出ず、3月からバサラマインツに加入した。

「最初来るときは『11部リーグなんて簡単だろう』と思って、なめてかかったわけではないですが、難しかったです。日本だったら下のリーグ相手だと簡単にやれるんですが、ドイツは国民性というのか、下のリーグでも球際をしっかり戦ってきて、けがすれすれのところでプレーしてくる。シュートを打つ時も、日本人のDFだったら諦めるところを、ドイツ人は足を伸ばして突然後ろからスライディングしてくる。僕はけがもあって4試合しかプレーできませんでしたが、チームメートのドイツ人が親しみを込めて話し掛けてきてくれて、ドイツ語の勉強になりましたし、ドイツの生活とサッカーに慣れたので、ちょうどいい3カ月になりました。いきなり日本人ひとりで5部リーグのチームに入ったら大変だったでしょうね」(酒井)

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著者プロフィール

1966年生まれ。転勤族だったため、住む先々の土地でサッカーを楽しむことが基本姿勢。86年ワールドカップ(W杯)メキシコ大会を23試合観戦したことでサッカー観を養い、市井(しせい)の立場から“日常の中のサッカー”を語り続けている。W杯やユーロ(欧州選手権)をはじめオランダリーグ、ベルギーリーグ、ドイツ・ブンデスリーガなどを現地取材、リポートしている

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