J3で新たな一歩を踏み出す鹿児島  県民の思いを胸に、J1に向けて一歩ずつ

松尾祐希

鹿児島は全国屈指のサッカーどころだったが……

鹿児島ユナイテッドFCがJ3に参戦。全国屈指のサッカーどころに念願のJクラブが誕生した 【(C)J.LEAGUE PHOTOS】

 鹿児島県のサッカーといえば、真っ先に出てくるのが高校年代の活躍である。選手権を2度制覇した鹿児島実、同準優勝1回の鹿児島城西、同4強1回の神村学園が全国の舞台でその名を轟かせてきた。

 鹿児島出身のサッカー選手をみても、前園真聖(鹿児島実高出身)や日本代表最多出場記録を持つ遠藤保仁(G大阪/鹿児島実高出身)、昨今では大迫勇也(ケルン/鹿児島城西高出身)と実に豪華絢爛(けんらん)。しかし不思議なことに、今まで鹿児島県にJクラブはなかった。その状況に終止符を打つべく、鹿児島ユナイテッドFCが2016年シーズンよりJ3に参戦。全国屈指のサッカーどころに念願のJクラブが誕生することとなった。

 県民の期待を一手に背負う鹿児島は14年に産声を上げたが、実はヴォルカ鹿児島とFC KAGOSHIMAが合併して結成された経緯がある。2013年までは共にKyu(九州)リーグに参加しており、両者が対峙(たいじ)するダービーでは、2000人前後の観客が集まるほどの盛り上がりを見せていた。

 なぜ、ライバル同士であった両者が合併することになったのか。話は12年にさかのぼる。両者はJリーグ準加盟クラブ(現・百年構想クラブ)の申請を出すべく準備をしていたが、同じ鴨池陸上競技場を使用する関係から、「申請を一本化するべきである」とJリーグと行政側から指摘される。

J参入への険しい道のり

鹿児島で主将を務める田上裕はJ参入への険しい道のりを経験してきた1人 【松尾祐希】

「1つになりたいというか、『1つにならないと無理だよ』と言われ、とにかく(1つに)ならないといけない状況だった」

 10年から12年までFC KAGOSHIMAで監督兼選手を務め、現在は鹿児島で主将を務める田上裕は、当時をこのように振り返る。しかし、選手たちの思いとは裏腹に、合併の話は思うように進展しなかった。

「僕らがサッカーを今もやっている理由の1つが、プロサッカークラブを作って子供たちに夢を与えることや、県民の人に見に来てもらい、いろいろな感情を共有する場を作ること。(ヴォルカ鹿児島の)赤尾(公)などと一緒に、県のサッカー協会に行って、『1つにしてほしい。子供たちも大人になっていくので、早く1つにしましょう』と話した」(田上)

 結果として、両者は12年末に合併することで一度は合意したが、経営側で話し合いがまとまらず交渉が決裂。13年に再び、別々でJリーグ準加盟申請を行うことになったが、Jリーグ加盟を目指すのであれば、「同じホームタウンから1チームに絞ってほしい」という要望が再び出された。

 合流する以外にJ参入への道が途絶えた両者は、話し合いを再開。金銭的な問題などで合流は前途多難の道のりだったが、さまざまな部分で折り合いが付き、13年12月には両クラブが1つになることで合意。晴れて、Jリーグに入会するための下準備は整うこととなった。

 気持ちを新たに、J加盟への道を進み始めた鹿児島だったが、チームを組閣していく中で新たな問題に直面した。

 2チームが合流するということは、選手の数を1チーム分に減らさなければならない。「お互いであぶれてくる選手が生まれてくるのは計算すれば分かる。これで上を目指していけるとは思いましたけど、うれしい気持ちと複雑な気持ちが半々でした」。田上もクラブを去ることになった仲間たちのことを思うと、手放しで喜ぶことはできなかった。

 それでも、「その思いも背負って、自分がやらせてもらえる限りは頑張っていこうと思いました。逆にそれが決意に変わった」(田上)というように、これまで苦楽を共にしてきた仲間の思いも背負うことで、新たなスタートを切る覚悟が整った。

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著者プロフィール

松尾祐希

1987年、福岡県生まれ。幼稚園から中学までサッカー部に所属。その後、高校サッカーの名門東福岡高校へ進学するも、高校時代は書道部に在籍する。大学時代はADとしてラジオ局のアルバイトに勤しむ。卒業後はサッカー専門誌『エルゴラッソ』のジェフ千葉担当や『サッカーダイジェスト』の編集部に籍を置き、2019年6月からフリーランスに。現在は育成年代や世代別代表を中心に取材を続けている。

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