教員チームからJへの知られざる歴史 J2・J3漫遊記 レノファ山口<後編>

宇都宮徹壱

元Jリーガーが故郷の山口に帰ってきて

宮成氏のオファーを受けて、監督、GMを歴任した河村社長。「サッカーで地元に恩返しできれば」と語る 【宇都宮徹壱】

 新たに立ち上がったクラブに不安を感じていたのは、中川だけではなかった。レノファ山口の代表取締役社長、河村孝は「これを言ってしまうと悪口になってしまいますが」と前置きした上で、こう続ける。

「まず、誰が責任を負うのかが明確でないように感じました。それにやっている人たちは先生だから、営業のノウハウがほとんどないし、ビジネスに先輩後輩を持ち出しすぎる。これは厳しいと思いましたね」

 河村は今年47歳。山口高校卒業後の87年にマツダSC(現サンフレッチェ広島)に加入し、当時監督だった今西和男からサッカーの指導はもとより社会人としての常識や心得も徹底的にたたき込まれる。「僕が今、こうしてクラブ社長をやっていられるのも、今西さんのおかげです」とは当人の弁だ。4年後の91年、全日空クラブから、のちに山口の監督となる上野展裕が移籍してくる。翌年、入れ替わるように河村が全日空あらため横浜フリューゲルスに移籍。両者が一緒にプレーしたのはわずか1シーズンだったが、この時の出会いがのちのち重要な意味を持つようになる。

 さて、河村のその後である。横浜Fでは結局出番がなく、Jリーガーとして1試合も出場機会が与えられないまま、旧JFLの大塚製薬(現徳島ヴォルティス)や福岡ブルックス(現アビスパ福岡)でプレー。現役引退後は、故郷の山口で『FCレオーネ(のちのレオーネ山口)』を立ち上げ、若年層の指導やフットサルコートの経営などで成功を収める。このレオーネからは、田中陽子(現ノジマステラ神奈川相模原)や原川力(現京都サンガFC)といったタレントが巣立っていった。そんな河村の経営と指導の手腕に着目したのが、山口のGMとなっていた宮成である。11年のオフ、宮成は河村に山口への監督就任を要請。この年、チームは地域決勝の出場権を逃し、地元開催の国体も初戦で敗退していた。

「今のままではダメだ、監督をお願いしたい。そういうお話でした。おそらく、教員団のしがらみもないことも、オファーの理由のひとつにあったと思います。先生の仕事を辞めてGMになったことからも分かるように、宮成さんはとても誠実で真面目な方でしたので、相当なプレッシャーを抱えておられました。幸い、レオーネのほうは軌道に乗っていましたし、宮成さんひとりが苦しんでいるのも忍びなかった。それに何より、サッカーで地元に恩返しができるのであればチャレンジする価値がある。そう思って、オファーを受けることにしました」

山口の命運を決した見事なバトンの引き継ぎ

中国リーグから3シーズンでJ2にたどり着いた山口。来季、維新でのホームゲームはさらに熱を帯びるはずだ 【宇都宮徹壱】

 河村がチームを指揮したのは、結局12年の1シーズンのみ。成績もリーグ戦4位と振るわなかった。ただし長い目で見れば、宮成のオファーはこの上なく正しい判断であった。おそらく当人は、病魔による体力的な限界を感じながら、GM職を河村に引き継ぎたいという思惑があったのだろう。一方の河村には、この年で現役を引退する地元出身の元Jリーガー、中山元気に「指導者として一本立ちしてほしい」という期待があったようだ。それらを裏付ける証言を「ミスター・レノファ」福原から得ている。

「確か中国リーグの最終節の直前だったと思います。河村さんが選手を集めて、こんなことをおっしゃっていました。『俺が実力を発揮できるのは、現場ではなくて運営だと思っている。絶対に上のリーグに導いてやるから、お前たちは元気に力を貸してくれ』と。実際、河村さんは監督としてベンチに座っていましたけれど、元気さんもボードを持って戦術的なことをいろいろアドバイスしていましたね」

 翌13年、河村は後任監督に中山を指名すると、自らは宮成に代わって新GMに就任。その後の行動は実に迅速かつ的確であった。この年、J3創設が発表されると、すぐにクラブはJリーグ準加盟を申請。8月に承認されると、11月にはチーム運営をそれまでのNPO団体から株式会社レノファに移管し、河村自らが社長に就任した。その間、クラブの功労者である宮成が志半ばで死去したことはすでに述べた。当人の無念はいかばかりかと思う一方、優秀な後継者にしっかりバトンを引き継いだ先見性と実行力にはあっぱれと言うほかない。この見事な引き継ぎがなかったら、その後の山口の躍進はあり得なかっただろう。一連の決断について、河村はこう語る。

「J3の話を聞いた時、これはチャンスだと思いましたね。逆にJFLからJ2を目指すのであれば、もっと長いスパンで考えないといけないと思っていましたから。この年の全社(全国社会人サッカー選手権大会)でも優勝したし、会社として予算の確保もできていたので、何とかJ3に滑り込みたいと思っていました。結果としてJFLからのスタートとなりましたけれど、1年ごとに結果を出していければいいと気持ちを切り替えることができました」

 石垣島での惨敗から6年後の14年、山口は悲願だったJFL昇格を果たす。初めて全国リーグを戦うにあたり、河村は旧知の上野に新監督就任を依頼。ライセンスの問題で指揮が執れなくなった中山は、コーチとして上野をサポートすることになった(のちにU−18監督に就任)。さらに、自身が立ち上げたレオーネ山口をレノファ山口の育成組織に組み込むことで、両者は完全に一体化する。その後の山口のサクセス・ストーリーについては、ここで繰り返すまでもないだろう。最後に、上野の興味深い証言を紹介しておこう。

「僕がマツダでプレーしていた頃、今西さんがGMで、ハンス・オフトが監督だったんですね。お互いをリスペクトし合う、素晴らしく良いコンビでね。あの2人を見ながら『俺たちもいつか、あんな感じで仕事がしたいね』なんて、河村社長に言ったことがありました。つまり僕がオフトで、河村が今西さん(笑)。まだまだ先は長いですけれど、一応立場的には似たような関係になってきているのかなって思いますね」

 長年、中国地方のサッカーの雄としてリスペクトされてきたマツダは、その後サンフレッチェ広島となり、現在もJ1の強豪クラブとして君臨し続けている。その間、クラブは幾多の優秀な指導者を輩出し、彼らはさまざまな土地で新たなサッカーの種を撒いてきた。山口の事例は、まさにその典型と言えよう。晴れてJ2昇格を決めたことで、レノファ山口はまた一歩、偉大な先達に近づいた。

<この稿、了。文中敬称略>

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)

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