実質的五輪代表のJ−22がJ3で敗戦 内容のない町田戦に感じた寂しさ

大島和人

五輪代表の主力級を並べた陣容ながらも、町田に惜敗したJ−22選抜 【写真は共同】

 9月23日、J3第30節。Jリーグ・アンダー22選抜は、J2復帰を狙うFC町田ゼルビアに0−1で敗れた。浅野拓磨、大島僚太、植田直通といったU−22日本代表の主力級を並べた陣容でありながら、単に敗れたというだけでなく内容的にも観るべきモノに乏しい試合はどうして起こってしまったのか。

“日本代表”がJ3にやってきた

「すごいメンバーが来ましたね」

「弱い者イジメだな」

 試合前、私はそんな会話を旧知のベテラン指導者と町田市立陸上競技場のスタンドでかわしていた。

 22歳以下とはいえ、“日本代表”がJ3にやってきた。J3には“Jリーグ・アンダー22選抜”が参加しているが、これは直近直後のリーグ戦で各クラブの18人枠に入らなかったメンバーで構成される急造チーム。個のレベルはともかく連係に難があり、常にJ3の下位をさまよっている。

 しかし23日の町田市立陸上競技場に登場した“スーパー選抜”は、手倉森誠U−22日本代表監督が実質的な指揮を執っており、海外組とJ2組を除いたほぼベストのメンバーで構成されていた。遠藤航こそ不在だったものの、浅野、植田といったA代表経験者も名を連ねていた。

 コンディションを見ても町田が不利だった。町田は20日にレノファ山口との首位攻防戦に臨んで敗れて中2日という心身の消耗がある中での試合である。一方、U−22の選手たちは19日から中3日が空き、しかも45分以上出場していたメンバーは大島、中島翔哉、井手口陽介の3名だけ。となれば常識的に考えると、U−22が優勢に思えた。

J3vs.J1の戦いだったが……

中2日で試合に臨んだ町田に比べ、野津田(写真)ら多くの選手が19日のJ1で45分以上出場しておらず、コンディションはあきらかに優位であった 【写真は共同】

 アウェイゴール裏には「ULTRAS NIPPON」の横断幕が張り出され、ニッポン! コールも聞こえてくる。かくしてJ3vs.J1の戦いの幕が開いた。

 ただ、町田の李漢宰主将は勝負の行方を悲観していなかった。15年のプロ生活で積み上げた経験値から、こういう試合に起こりがちな展開を理解し、何をすればいいかが分かっていた。

「代表ではなくJ3の試合という中で、(U−22が)多少モチベーション的にも低く入るんじゃないかと、みんなで話していた。球際の部分で、特にファーストインパクトで相手に強くいけば相手は嫌がる。意識的に大島選手、井手口選手に厳しくいきました」(李)

 これがU−22から戦意を奪ったのかもしれない。町田のCB増田繁人はU−22の攻撃をこう振り返る。

「ボランチの選手からあまり良いボールが出てこなかった。縦に出させないというチームのコンセプトではあるけれど、持ち方があまり脅威でなかった。FWをもっと見て『いつでも入れられるぞ』ということをしていたらちょっと怖かった。中がないと思ったらすぐに外に振って、目線が切れるのも速かった」(増田)

 この試合、町田が警戒していたのはFW浅野のスピードだ。そこに大島、井手口の両ボランチから縦に入れば、対応は難しいモノになる。対策としてこの試合の町田は、いつもに比べてかなりDFラインを下げていた。後ろに寄せつつコンパクトな陣形も保ち、中島が自由にプレーするスペースも消す。コンディションと相手の脅威を考えた、苦肉の試合運びだったとも言える。町田はそれが奏功して前半を無失点で切り抜けると、浅野が退いた後半は失点どころか決定機すら許さなかった。

 町田は攻撃での迫力をやや欠いていたが、65分過ぎから圧力を強める。72分に戸島章がCKから191センチの高さを生かしてヘッドを決め、ついに先制。実質五輪代表の相手に1−0というスコア以上の完勝を収めた。

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著者プロフィール

1976年に神奈川県で出生し、育ちは埼玉。現在は東京都北区に在住する。早稲田大在学中にテレビ局のリサーチャーとしてスポーツ報道の現場に足を踏み入れ、世界中のスポーツと接する機会を得た。卒業後は損害保険会社、調査会社などの勤務を経て、2010年からライター活動を開始。取材対象はバスケットボールやサッカー、野球、ラグビー、ハンドボールと幅広い。2021年1月『B.LEAGUE誕生 日本スポーツビジネス秘史』を上梓。

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