プロ注目右腕・森下暢仁の秘めた強さ 未完の逸材は侍U-18代表で成長する

中島大輔

甲子園経験のない唯一のメンバー

甲子園出場は逃したが、プロのスカウトから高い評価を受ける森下。今秋のドラフト1位候補と見られる逸材だ 【Getty Images】

 緊張感を持って臨んだ8月31日のチェコ戦をひとりで投げ抜いた後、試合後の囲み取材でも森下暢仁(大分商)は顔を固くしたままだった。その表情がようやく崩れたのは、15分の取材時間が間もなく終わろうとするころ、「プロのスカウトが注目して見ているけど、それは力になりましたか?」という質問をしたときのことだ。

「いや、でも、あまり意識してないんで」

 そう言った森下は照れ笑いを浮かべると、試合について言葉を続けた。

「結果、こういうピッチングができたので、良かったと思います」

 初の世界一を懸けてU−18ワールドカップに臨んでいる日本代表20選手の中で唯一、森下は今年の春夏の甲子園に出場していない。それでもメンバーに選ばれていることが、逆説的にこの右腕の評価を物語っている。実際、大会初戦のブラジル戦で1イニングを3人で抑えると、先発を任された31日のチェコ戦では7イニングを無失点に封じ込めた(7回コールド勝利)。

 最速148キロを誇る森下は、今秋のドラフトで1位候補と見られている逸材だ。カットボールとスライダー、カーブを持ち球とし、制球力や肘を柔らかく使える投げ方、そして伸びしろの大きさが評価されている。

スポーツ紙の「投手歴1年弱」は誤報

 その名が特に売れたのは、今年6月、2カ月後の甲子園を制すことになる東海大相模(神奈川)と練習試合で対戦して9回2失点、10奪三振、無四球で完投勝利を収めたときだ。「楽しみながらできた」と振り返った森下自身、この試合は投手人生で最も手応えのあった一戦だったという。
 東海大相模戦での快投は、その後、某スポーツ新聞が「本格的な投手歴は1年弱」と逸材ぶりを強調したほどのインパクトだった。

 だが、これは“誤報”である。

「小学校ではずっとピッチャーをしていて、中学校では1年間投げてないんですけど、肘を痛めてしまって。それで野手をやっていて、そのまま高校に上がって。肘はだいぶ治っていたけど、他にもピッチャーがいたので、野手でもいいかなという感じで入って。監督に『投げてみろ』と言われて高校1年ではピッチャーをしていたんですけど、2年では野手として試合に出させてもらって。3年はほとんどピッチャーという形になって、それで『1年弱』と書かれました」

 森下がプロを意識するようになったのは、高校2年秋のことだ。1学年上の笠谷俊介が福岡ソフトバンクにドラフト4位で指名されて、「自分もプロに行けるのかなと思い始めました」。

 投手に復帰した森下はプロから品定めされるようになっていくが、彼自身は「いつの間にか時間が経っていたので」と振り返る。
 無我夢中で練習を重ねたが、甲子園に出場することはできなかった。最後の夏の大分大会では決勝で被安打6に抑えながら、0対1で明豊に敗れている。

「勝負どころでの球が甘くなったりすることがあって、それで1点取られたので。大会後、そういうところを反省しました」

 日本代表に選ばれていることからも分かるように、森下の実力は疑いようがない。だが、その力を果たして大舞台で発揮することはできるだろうか。

甲子園“初登板”を経て豪華メンバーの一員に

 26日に行われた大学日本代表との壮行試合では、不安が感じられた。“初登板”となった甲子園で力が入りすぎたあまり、被安打3、与四死球2で3点を奪われてしまったのだ。

「大学生とやったときには初めての甲子園で、本人も『緊張した』と言っていました」

 そう話した西谷浩一監督(大阪桐蔭)だが、時間が経つにつれて森下の変化を感じていた。そこで、チェコ戦の先発に抜てきする。

「だいぶ場慣れもしてきて、力が出てきたんじゃないかなと思います。今日は5回くらいまで行って、ピッチャーを後につなごうと思っていたんですけど、良い状態になってきたのでそのまま行きました」

 森下は今回の日本代表に合流した直後、チームメイトとなじむまでに時間がかかったという。しかし数日が経ち、豪華メンバーの「一員」になることができた。その様子は、チェコ戦後の次のコメントによく表れている。

「(代表に選ばれたのは)九州からひとりですし。その中で甲子園メンバーというか、テレビの中にいたメンバーとやれて光栄に思います。自分ももっと成長できる場所だな、と」

 チェコ戦では序盤、身体が前に突っ込みすぎたために、持ち味の制球が安定しなかった。フォームを乱したのは、1回表の攻撃で5点のリードをもらったがゆえだった。

「点を取ってもらって楽な気持ちでマウンドに上がることができたんですけど、投げ急いでしまうというか、たぶん『早く3人で終わらせないと』という意識があって。それでフォームとかが前に突っ込んだりしていたので」

 3回まではすべて得点圏に走者を背負ったが、4回以降は12人の打者から8個の三振を奪い、無安打に封じ込めた。調子を取り戻すことができたのは、イニング間にブルペンに行き、フォームを修正したからだ。

「キャッチボールしながら、『なんか今日、指に引っかかるな』という部分があったので。お尻からそのまま流れていたような感じで、腕も振れているのか、振れていないのかという感じだったんですけど。それをちょっとためるだけで、腕もうまくついてきてくれて、良い球が行くようになりました」

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著者プロフィール

1979年埼玉県生まれ。上智大学在学中からスポーツライター、編集者として活動。05年夏、セルティックの中村俊輔を追い掛けてスコットランドに渡り、4年間密着取材。帰国後は主に野球を取材。新著に『プロ野球 FA宣言の闇』。2013年から中南米野球の取材を行い、2017年に上梓した『中南米野球はなぜ強いのか』(ともに亜紀書房)がミズノスポーツライター賞の優秀賞。その他の著書に『野球消滅』(新潮新書)と『人を育てる名監督の教え』(双葉社)がある。

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