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日本ハンドボール界の希望に――
フランス1部リーグ土井杏利の挑戦
ハンドボールのフランス1部に所属する強豪シャンベリーで活躍する日本人プレーヤー、土井杏利(中央)。帰国時にインタビューを行った
ハンドボールのフランス1部に所属する強豪シャンベリーで活躍する日本人プレーヤー、土井杏利(中央)。帰国時にインタビューを行った【Eric Joffrey】

 昨年のアジア大会(韓国・仁川)では、史上最低となる9位という屈辱を味わったハンドボール全日本男子代表。1988年以来遠ざかっている五輪という舞台に戻るためには、アジアの壁を越えなければならないが、いまだその道筋は見えていないのが現状だ。


 その中で今年2月、元日本代表としてプレーし、監督としては日本リーグの大崎電気で活躍した岩本真典新監督が就任。「チーム再建」という重責を担うことになった。


 5月には第1回強化合宿メンバーが発表され、日本のハンドボールの象徴のような存在でもあった宮崎大輔(大崎電気)らが外れ、若手や中堅を中心としたメンバーが招集された。


 そのリストの中に、フランス1部の強豪シャンベリーで活躍する土井杏利の名前も挙がっていた。しかし、土井自身はリーグの真っ最中ということで、合宿には不参加。世界のトップリーグで戦う土井の勇姿を日本で見ることはできなかった。


 今回スポーツナビでは、フランスリーグ終了後、日本に一時帰国していた土井にインタビュー。海外のリーグで戦うことの意味、そして日本代表や五輪への思いなどを聞いた。

「やるからには世界一になりなさい」

兄妹の後を追う形でハンドボールを始めた土井。母からは「やるからには世界一になりなさい」と言われていた
兄妹の後を追う形でハンドボールを始めた土井。母からは「やるからには世界一になりなさい」と言われていた【中莖かうり】

――まず土井選手の経歴をおさらいしたいと思います。ハンドボールを始めたきっかけは?


 小学校3年生の頃、兄と妹が先にハンドボールを始めていたのですが、彼らの見学をしに行き、チームに参加して体験させてもらったのがきっかけです。それでのめりこんじゃいましたね。もともとドッジボールが好きで、肩が強かったのもあって、監督が勧誘してくれました。


――地域的にはハンドボールが盛んだったのですか?


 まったくです。今ではいくつかチームが増えましたけど、僕がいた頃は、小学校のクラブで、千葉県にあったのは1つだけ。中学校も市内には1つだけでした。


 もともと、兄たちもハンドボールを全然知らなくて、たまたま日本代表の選手がハンドボールを広める活動をしているイベントに参加しました。僕はその時いなかったのですが、後からチームの練習を見学してからはまってしまい、本当に偶然が重なった感じです。


――その頃から毎日練習していた?


 小学校の頃は週に1回、日曜日だけでした。中学の時も部活ではなく同好会で、週に3回ぐらいしか練習をしていません。その頃はただただ楽しいという感じでした。チームも男子の人数が少なくて、「僕と愉快な仲間たち」といった感じでのんびりやっていました。


 ただ僕自身は、世界で戦うことを意識していました。というのも、僕の両親が変わった育て方をする人たちで(笑)。結局兄と妹はハンドボールを途中でやめてしまうのですが、2人とも別の分野で世界と戦えるほどの結果を残しています。


 特に僕の母親の育て方が結構変わっていて、「自分たちの好きなものを見つけてやりなさい」と言われていました。ただその代わりに「やるからには世界一になりなさい」とずっと言われていたんです。ですから、最初はのほほんとやっていましたけど、徐々に僕の中で「五輪で優勝」が夢になっていました。

奇跡的にひざが回復 名門チームで活躍

もともとは語学留学だったが、ひざが回復したこともあり再びハンドボールへ。海外のチームでも一気に頭角を現した
もともとは語学留学だったが、ひざが回復したこともあり再びハンドボールへ。海外のチームでも一気に頭角を現した【Eric Joffrey】

――その後、高校では強豪校の浦和学院、大学も日本体育大へと進学。しかし大学生の時、左ひざのケガの影響で、一度ハンドボールから離れることになりました。その当時については?


 ハンドボールができなくなるケガはこの時が初めてでした。ケガの理由は、完全に練習のし過ぎです。4年生の最初に左ひざの皿の下にある軟骨を痛めてしまい……。軟骨は一度損傷してしまうと再生しないのですが、それをずっとごまかしながら、1週間に一度は皿の下に痛み止めの注射をしながら、リハビリをしつつ練習していました。


 もともと攻撃タイプだったのですが、ジャンプと着地が一番ひざに負担がかかるので、その1年間はディフェンダーしかできませんでした。でも最終学年だったので、痛くてもテーピングを巻いてやろうと思って……。そのせいで今度は右足が駄目になって、最後は両ひざをテーピングでぐるぐる巻きにしてプレーしていました。全国優勝もしましたが、心の底から喜べないというか、「本当はもっとできるのに」という悔しい思いがありました。


 卒業後は実業団からのお話もあったのですが、やっぱりずっと痛みを抱えながら続けてもと思いました。ハンドボールが大好きだからこそ、中途半端に続けたくなく、それで辞めることを決断しました。


――そこからフランス留学を選ばれました。


 フランスにはハンドボールをしに行くという目的はゼロでした。ただ、ハンドボールしかやってこなかったので、いきなり就職するのも何か違うと思い、自分のアピールできるポイントをパワーアップしてからにしようと。それで語学を2、3カ国語喋れたら有利になると思ったので、少し喋れていたフランス語を1年間学んでみようという気持ちで留学を選びました。


――その時、留学先に選ばれたのがシャンベリーという土地でした。実際に住んでみた感想は?


 そもそも何でシャンベリーにしたのかというと、日本の本田技研でプレーされていたフランス人プレーヤーのステファン・ストックランに憧れていて、彼がシャンベリー出身だったということで、この土地を選びました。


 僕の予定としては本当に平日の間は勉強して、週末はハンドの試合を観戦に行こうという感じだったんです。ただハンドボールのことが常に頭にあり、毎日の授業も何か物足りないなという感じはしていました。


 その後、これは奇跡だと思っているんですけど、ひざの痛みがいきなりなくなったんです。向こうはクラブチームなので下部組織があるのですが、どこのレベルでもいいから趣味程度でもいいから続けたいと思って直談判しに行きました。最初はもちろん「何だこの日本人?」って追い出されましたけど(笑)。


 それから父に頼み、クラブに連絡してもらったら、たまたま紹介してくださったチームがシャンベリーの2番手のチーム、プロの1個下に値する、フランス3部リーグの若手育成チームでした。そこで毎日練習に参加するようになり、監督にも気に入ってもらいました。その後はすぐに語学学校を辞めて、クラブに専念して毎日練習をしました。


――その決断は迷いませんでしたか?


 そうですね。ひざの調子を考えながら決めたのですが、もう一度、守備だけでもいいからやりたい、本当にハンドボールが好きなんだなと思いながらやっていました。


 その時は上を目指そうとか考えていませんでした。でも逆にそれが良かったかもしれません。結果的にプロ契約に結び付いたのは監督が僕の実力を認めてくれて、チームに必要だと判断して下さったからです。

 その後はライセンスの取得などで時間がかかってしまいシーズンの半分が過ぎてしまったのですが、後半のシーズンだけですが、そこですごく良い活躍ができました。それで結局プロ契約につながりました。


 今思うと、なぜそこまで結果を残せたのかというと、おそらくのんびりやっていたからだと思うんですよね。たとえば日本の実業団選手で、海外を経験しようという選手は、1年と期間が決められてしまい、結果を残さなくてはいけないというプレッシャーがかかると思うんです。僕の場合は、そのプレッシャーがなく、負けてもいいやってくらいで試合をしていたので、それが逆にリラックスできて、良いプレーが続けられたんじゃないかなと思っています。


――無邪気にハンドボールを楽しめたことが結果につながったと。


 そうですね。小学校、中学校の頃と同じ感覚、単純に楽しくやれたことが良かったんだと思います。

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