実業団所属のパラ陸上アスリートの軌跡 堀越信司「仲間の存在がリオへの力になる」

荒木美晴/MA SPORTS

日本選手権の1500mでアジア新記録をマーク!

ヤンマースタジアム長居で開かれた「IPC公認日本パラ陸上競技選手権」で力走する堀越 【吉村もと/MA SPORTS】

 年々、競技力が向上しているパラスポーツ界。陸上では企業とスポンサー契約を結び活躍するプロアスリートがいるが、企業の陸上部員として競技生活を送る選手はごくわずかだ。

 視覚障がいT12クラスの堀越信司(ただし)は、マラソン日本代表選手も輩出しているNTT西日本陸上競技部の所属。パラ陸上の長距離選手としては唯一の実業団選手として、普段からチームメートとともに練習に励んでいる。

 7月18日と19日にヤンマースタジアム長居で開かれた「IPC公認日本パラ陸上競技選手権」。来年のリオデジャネイロパラリンピックを見据え、ユース世代からベテランまで多くの選手が参加するなかに、堀越の姿があった。

 5000メートルが専門。その初日のレースでは優勝したものの、記録(15分14秒74)は自己ベスト(14分48秒89)に遠く及ばず。気持ちを切り替え、2日目の1500メートルにすべてを懸けた。スタートから飛び出すと冷静にラップを刻み、ラスト300メートルまでペースをキープ。そして、最後の直線を力強く走りきり、ゴールラインを駆け抜けた。タイムは4分04秒62で、10月の世界選手権(カタール・ドーハ)の参加標準記録(4分08秒00)を突破。自己ベスト、そしてアジア新記録となる会心の走りに、堀越はガッツポーズを作ってみせた。

 今年に入って2度目のトラックレース。「ようやく内容の良い走りができました」と、納得の走りに笑顔を見せた堀越。そして、声援を送ってくれた観客席を見ながら、彼はこう続けた。「(世界選手権では)結果を出してNTTのチームのみんなや応援してくれる人に恩返しができたらと思います」

(映像提供:MA SPORTS)

20歳で経験した世界の壁

 長野県出身の堀越は、生後まもなく眼の病気のため右眼を摘出。左眼はその影響で視力0.05の弱視だが、単独で走ることができる。中学校から親元を離れて筑波大学付属盲学校高等部に進み、陸上を始めた。高校に入ってからタイムが伸び、世界を意識するようになったが、当時はパラリンピック出場までは考えていなかったという。

 卒業後は福祉の勉強をするために目白大学に進学。もともとマイペースに陸上を続けるつもりだったが、陸上競技部がなかったため、自分で競技場を予約してトラック練習をしたり、陸上同好会を作って他大学の選手と情報交換したりと、個人で工夫を重ねながら学業との両立をはかっていた。

 そんな堀越に大きな転機が訪れたのは、大学2年の20歳の時だった。北京パラリンピック日本代表に選ばれたのだ。1500メートルと5000メートルにエントリーしたが、結果はどちらも予選敗退。世界のレベルの高さを目の当たりにし、同時に大歓声に飲まれる自分の未熟さを痛感した。戸惑いと無念さを胸に日本に戻った堀越は、これまで以上に練習に工夫を凝らし、独自にトレーニングに励むように。

「もっと速く走りたい」

 この頃、記録がぐっと伸び始めた背景には、北京の悔しさがあった、と堀越は振り返る。

 そして、大学院への進学を考えていた時、「うちに来ないか」とNTT西日本陸上競技部から声が掛かった。実業団駅伝チームのナンバーワンを決める「ニューイヤー駅伝」の常連であり、数々の功績を残す名門チームからの誘いに驚きを隠せなかったが、覚悟を決めた。そして2011年、ハンディキャップを持つ初めての選手として採用が決まったのである。

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著者プロフィール

1998年の長野パラリンピック観戦を機に、パラスポーツの取材を開始。より多くの人に魅力を伝えるべく、国内外の大会に足を運び、スポーツ雑誌やWebサイトに寄稿している。パラリンピックはシドニー大会から東京大会まで、夏季・冬季をあわせて11大会を取材。パラスポーツの報道を専門に行う一般社団法人MA SPORTSの代表を務める。

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