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栄光と分断の街、モスタルにて
ハリルホジッチの足跡をめぐる旅<前編>

ハリルホジッチは「ヘルツェゴビナ人」?

ネレトヴァ川にかかるスタリ・モスト(古い橋)。観光都市モスタルのシンボルであり、国内で最初にユネスコ遺産に指定された
ネレトヴァ川にかかるスタリ・モスト(古い橋)。観光都市モスタルのシンボルであり、国内で最初にユネスコ遺産に指定された【宇都宮徹壱】

 トンネルを抜けると、そこはヘルツェゴビナだった。


 イビチャ・オシムとヴァイッド・ハリルホジッチという2人の日本代表監督を生み出した国、ボスニア・ヘルツェゴビナ。旧ユーゴスラビア連邦の構成国家のうち、3番目に大きな面積を持つこの国は名称が長いために、わが国では「ボスニア」と略されることが多い。かつてのチェコスロバキアやセルビア・モンテネグロと同様、この国も北部・中部を占めるボスニア、そして南部のヘルツェゴビナで構成されている。首都のサラエボから、ヘルツェゴビナ最大の都市であるモスタルへは、車を飛ばして2時間半くらい。険しい山道を走破し、長いイヴァントンネルを抜けると、陽の光が2割増しになって湿度もぐっと下がったように感じられる。


「このイヴァントンネルを抜けたら、もうヘルツェゴビナですよ」と教えてくれたのは、今回の取材に同行してくれた通訳兼コーディネーターのジェキチ美穂である。彼女によれば、このイヴァントンネルはボスニアとヘルツェゴビナをつなぐ象徴であり、「BiH(ボスニア・ヘルツェゴビナの現地表記)の“i”は、実はイヴァントンネルだ、と言われているんです(笑)」とのこと。いかにも当地らしいジョークだが、妙に納得してしまう。


 こうした地理的なボーダーラインの他に、もうひとつ忘れてならないのが民族的なボーダーラインである。この国は『ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦』と『スルプスカ(セルビア人)共和国』という2つの構成体からなる連邦国家であり、前者はボシュニャク(ムスリム)人とクロアチア人、後者はセルビア人が主体となっている。旧ユーゴは、さまざまな民族が暮らしていたことで知られているが、ボスニアは上記した3民族が共生しているという意味で、旧ユーゴの縮図のような国家であると言ってよい。ちなみに今回の取材でドライバーをお願いしたニコラは、スルプスカ共和国出身のセルビア人。これから向かうモスタルは、ボシュニャク人とクロアチア人がそれぞれ3割以上を占めており、セルビア人はマイノリティーとなっている。


 サラエボでオシムのインタビュー取材を終えた私たちは、次なる目標として「ヴァハ」の愛称で知られるハリルホジッチの足跡をたどる旅に出た(日本では「ハリル」という呼び名が定着しつつあるが、本稿では当地でポピュラーな「ヴァハ」で通す)。ヴァハが生まれ育ったヤブラニツァ、そして選手として最初にブレークしたモスタル。いずれもヘルツェゴビナ=ネレトヴァ県にあり、ゆえにわれらが代表監督は「ボスニア人」というよりも、実は「ヘルツェゴビナ人」と理解すべきなのかもしれない。では、ヘルツェゴビナ(人)とは何か? それを知ることもまた、今回の旅の目的であった。

ヴァハが最初に輝いたベレジュ・モスタル

ベレジュ・モスタルの事務所の壁に掲げられた集合写真。80年前後と思われる。後列の右から4番目がハリルホジッチ
ベレジュ・モスタルの事務所の壁に掲げられた集合写真。80年前後と思われる。後列の右から4番目がハリルホジッチ【宇都宮徹壱】

 初めて訪れたモスタルは、抜けるような快晴。サラエボでは曇りと雨の日が続いて肌寒かったのだが、わずか2時間半のドライブで違う国にやって来たような錯覚を覚える。この街で一番の観光名所は、ネレトヴァ川にかかるスタリ・モスト(古い橋)。ボスニア戦争中の1993年に破壊されたが、11年後の2004年に復旧作業が完了して、国内初のユネスコ世界遺産に登録された。今では海外からの観光客で賑わうモスタルだが、街中から少し外れると、今でも爆撃されて廃墟のままの建物をあちこちで目にする。


 モスタルに到着して最初に訪れたのは、当地を代表する名門クラブ、ベレジュ・モスタルのオフィスである。ベレジュとはいうまでもなく、ヴァハが最初に所属したクラブだ(その後、すぐにFKネレトヴァに1シーズン貸し出されたが)。設立は1922年。レッドスター、パルチザン(以上、セルビア)、ディナモ・ザグレブ、ハイドゥク・スプリト(以上、クロアチア)といった強豪がしのぎを削る旧ユーゴリーグに所属し、リーグタイトルこそないものの、カップ戦で2回優勝(81、86年)、UEFAカップ(現ヨーロッパリーグ)でベスト8進出を果たしたこともある(74−75シーズン)。


 ベレジュにとって、最初のタイトルとなる81年のユーゴカップで、決勝の3得点のうち2ゴールを挙げたのが、当時29歳のヴァハ(スコアは3−2。余談ながら対戦相手のジェレズニチャル・サラエボを率いていたのは、あのオシムだ)。この決勝では控えGKとしてベンチに座り、現在はベレジュのクラブダイレクターを務めるセディン・タノビッチは、現役時代のヴァハについてこう語る。


「ヴァハは最高級のストライカーであり、当時のユーゴスラビアでは一番の典型的なセンターFWだったね。常にファイターであり、彼の闘争心はチームに良い影響を与えていた。ヴァハはその後、フランスにわたってもゴールを量産し、指導者として多くの成功をつかんでいる。日本での彼の仕事については、ここモスタルのファンも大いに注目しているよ」


 ベレジュの栄光を支えてきたのは、ヴァハをはじめとするヘルツェゴビナ出身の名手たちであった。思いつくまま挙げると、エンベル・マリッチ、ドゥシャン・バイェビッチ、ゴラン・ユーリッチ、メホ・コドロ、セルゲイ・バルバレス、ハサン・サリハミジッチ、セナド・ルリッチ──。彼らはいずれも、モスタルやヤブラニツァの出身である。なぜヘルツェゴビナは、これほどのタレントを輩出してきたのだろうか。「それはね、いつも太陽が輝いていて、気候がいいからだよ。ブラジルもそうだろう?」というのがタノビッチの答え。何だか、説得力があるような、ないような……。

宇都宮徹壱
宇都宮徹壱

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著はスポーツナビでの連載をまとめた『J2&J3 フットボール漫遊記』(東邦出版)

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