萩野公介が乗り越えてきた4つの壁 10年指導した恩師が語る成長の記録

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リオ五輪前年、負傷で世界選手権を欠場

骨折で世界選手権を欠場することになった萩野公介 【写真:YUTAKA/アフロスポーツ】

 競泳の世界選手権を約1カ月後に控えた3日、萩野公介(東洋大)は右腕をギプスで固定し、痛々しい姿で都内の会見場に現れた。フランス・カネでの事前合宿中、自転車で移動する際に転倒して右ひじを負傷。橈骨頭(とうこつとう)骨折で全治2カ月と診断され、今年の目標に定めてきた大舞台を欠場することを余儀なくされた。

 会見の席で萩野は「日本で応援してくださっているたくさんの方々に対して申し訳ないという気持ちでいっぱいです。調子が上がっていただけに残念。チームのみんなに迷惑をかけた」と無念の表情を見せた。

 無理もない。世界選手権で金メダルを獲得すれば、来年のリオデジャネイロ五輪代表が内定する。萩野は今季世界ランク1位の400メートルと200メートル個人メドレーをはじめ、200メートル、400メートル自由形、800メートルリレーの5種目への出場を予定していた。これで、1年前に内定を得るというプランは崩れ、来年4月の日本選手権で五輪の切符を目指すことになる。

 今回、大きな挫折を味わった萩野だが、これまでもすべてが順風満帆だったわけではない。幼い頃から各年代の記録を更新し続け、2012年の高校3年時には、ロンドン五輪の400メートル個人メドレーで銅メダルを獲得した。それでも華やかな競技人生の裏には転機となる壁が存在し、それらを乗り越えることで、さらなる強さを身に付けていった。

 世界選手権欠場を発表する前、萩野を小学3年から高校3年までの10年間にわたって指導した、みゆきがはらスイミングスクール(SS)の前田覚(さとる)コーチに話を聞いた。恩師の言葉からは、萩野が日本競泳界のエースに成長するまでの過程、葛藤や重圧との戦いが垣間見える(取材日:6月18日)。

負け知らずの小学生時代

幼い頃から負け知らずだった萩野。スクールにはたくさんの賞状が並んでいた 【スポーツナビ】

――萩野選手にあった時の第一印象と、泳ぎを見たときの印象を教えてください。

 本人を見た印象はどこにでもいるような、ごく普通の子というものだったと思います。選手としては泳ぎの完成度が高い。ちょっとうま過ぎるなっていう泳ぎでしたね。一番驚いたのは背泳ぎでした。小さい頃は筋力がないので、手を回しているときに肩が水面に上がって泳ぐのは難しいんですね。筋力がついてくると肩が上がるようになるんですけれど、(萩野は)小さい頃から肩が水面に上がって泳いでいたんです。小学3年生で、高校生になってからようやくできるようになる泳ぎをやっているんですよ。何をとっても完成されているとまでは言わないですけれど、3年生でここまでうまく泳げるのかというのが正直な印象です。

――どのような方針で指導をしていたのでしょうか?

 平泳ぎは少し下手でしたけれど、バタフライ、背泳ぎ、クロールは非常に上手でした。基本的にタイムが伸びている時はいじらない。特に背泳ぎの手のかき方とか、彼の良いところや、他の子がまねできない動きはいじらない方が彼の特性を消さなくていいと思いました。あまり細かい指導はせず、大ざっぱなところで泳ぎは調整するようにしていました。

――小学生の頃は負けなしの強さを誇っていました。モチベーションが下がることはなかったのでしょうか?

 試合では大体自己ベストが出ていたのですが、たまに出ないこともある。その時に、僕自身はそんなに怒らなかったんですけれど、お母さんに怒られているシーンを見ました。そういうところで(本人は)悔しい思いがあって、試合に出る以上は自己ベストを出すという思いがおそらくあったと思うんです。

――モチベーションが下がらないようにお母さんが律していたんですね。

 公介の実家からここ(みゆきがはらSS)までは車で1時間かかります。ご両親からしてみたら、送迎と練習見学で毎日4時間は拘束されるわけです。だから、タイムが出ないと「私はこんなに頑張っているのに」というお母さんの思いもあったと思うんです。公介も成長するにつれて、だんだんと両親のおかげということに気付かされて、頑張らなければいけないと考える。毎日の送迎とトレーニングさせてくれることへのありがたみをすごく感じながら練習していただろうから、努力できた部分もあると思いますね。

――前田コーチとお母さんの間で、萩野選手をどう育てるのかを話し合う機会はありましたか?

 小さい頃は「五輪の選手になれたらいいですね」みたいな笑い話をしていました。公介はピアノとか塾に行ったり習い事をたくさんやっていましたし、ご両親としては水泳も大事だけれど勉強も大事という思いがある。タイムが出ない時には「いつ選手をやめてもいいんだよ。別に水泳だけじゃない」ということも言っていました。ただ、タイムが伸びていくうちにご両親も少しずつ欲が出てくるし、コーチの僕もそう思いました。「学童新を出した選手は五輪に行けない」みたいなジンクスがあるので、それを変えようという話をしていましたね。

 そして、高校1年(10年)の時にパンパシフィック選手権の代表に選ばれたんです。そこから本人も目の色が変わってきたというか、僕も本当に高校生で五輪に行けるんじゃないかという手応えを得ました。本人も、ご両親も意識するようになっていったと思います。

最初の難関は中学2年

中学2年のときにひざの手術とライバルの出現という大きな壁に直面する 【写真:アフロスポーツ】

――順調なキャリアを歩んでいるように見えますが、萩野選手にとって転機となったレースや出来事はあったのでしょうか?

 最初に難関があったのは中学2年の時です。ひざの半月板を損傷して、手術をしなければならなくなりました。初めてメスを入れたので不安もありましたし、手術後1カ月間は泳げなかったんです。それでも、治ってから3日くらいしか泳いでいないのに、2月の日本短水路選手権で50メートル背泳ぎに出場したら(当時の)中学記録が出た。お母さんも号泣して「もうダメなんじゃないのか」と言っていたのに、復帰戦でモチベーションが上がるような記録が出た。本人もまた良い形でトレーニングに臨めたし、ご両親も心配せずにやれるようになった。そういう部分で、何か持っていると思いましたね。

――復帰後すぐに記録が出たのはなぜだと思いますか?

 彼は元々陸上のトレーニングが好きではないのですが、(手術後は)泳げないので毎日やっていました。小学6年生のときは2、3回やると腕がプルプルプルなって腕立ても満足にできませんでしたから。別にものすごい力がついたわけではありません。それだけで彼は記録が出せた。50メートルくらいなら練習していなくても、水の中に入っていなくても記録を出してしまう。「こいつ神懸かっているな」と思いましたね。

――中学2年の時には、瀬戸大也選手(JSS毛呂山)に初めて負けたレースがありましたね。

 8月のJO(ジュニア五輪)です。瀬戸君に負けて、ようやく自分よりも速い選手、ライバルに出会うことによって意識レベル、競争レベルが上がりました。「これはもっと頑張らないと、やられてしまう」という危機感が出てきましたね。ライバルの存在は良いことだと公介にも言い聞かせていました。本人も素直に「まだまだ僕は練習を頑張っていない。努力が足りないことに気付かされた」とその頃にはっきりと言っています。

 ただでさえ頑張る人間なのに、もっと頑張ろうと思うようになりましたね。瀬戸君の存在はとても大きいと思うし、公介と瀬戸君は金メダルを取れる選手ですから、あんな選手が2人同時に出るなんてありえないし、本当に何十年に1回のことだと思います。

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