佐藤真海が伝える“スポーツのチカラ” 皆が尊重し合える社会を残すために
第50回は「スポーツのチカラ」をテーマにパラリンピアンの佐藤真海氏による講演が行われた。写真左は司会の深山計氏 【スポーツナビ】
学生時代にガン発覚「まさか自分が」
しかし、間もなく20歳を迎えようかというころ、右足にねん挫に似た痛みを覚えるようになる。次第に「足が砕けるような痛み」へと変わり、病院で検査した結果、骨肉腫という骨のガンであることを宣告された。
「みんな他人事だと思うんですけど、私にとっても『まさか自分が』という感じでした」と当時を振り返った佐藤氏。右脚をひざ下から切断することを余儀なくされ、抗がん剤による副作用で髪の毛が抜けるなど苦しい時期を過ごした。
そんな中で支えとなったのが、同じく病と闘う仲間や、大好きな母親の存在だったという。特に母親から送られた「神様は、その人に乗り越えられない試練は与えないんだよ」という言葉は今や信念となっており、「どん底でダメな時にも『自分なら乗り越えられるぞ』という気持ちにさせてくれる」と明かした。
ガンを克服し無事に退院した佐藤氏だが、すぐに立ち直れたわけではなかった。「表に出さないまでも、ここから3年間くらいはやはり喪失感というものがあって、フラッシュバックのように急に悲しくなることがあった」。かつらを被り、慣れない義足で歩く自分を情けなく思い、泣き明かす日々だったと回想する。
泣いてばかりの自分が嫌で「わらにもすがる思いで」始めたのがスポーツだった。日本における義肢装具士の第一人者である臼井二美男氏と早くに出会ったことで、義足で歩くのと並行して再び陸上競技の世界へ。「スポーツをすると目標ができますよね。なので自分の嫌な部分を乗り越えるように前へ前へ、一歩一歩という気持ちになりました」。
スポーツを通じて自信を取り戻していった佐藤氏。パラリンピックから学んだことへと話題は移っていく。
第2の人生が開いたアテネパラリンピック
アテネパラリンピック出場で「第2の人生が開かれた」と振り返った佐藤氏 【スポーツナビ】
佐藤真海氏(以下、佐藤) いつか行きたいというふうに最初のころは思っていましたね。すごい世界だろうなあと。それが自分が思っていたリハビリの延長ではなくて、これはスポーツの世界だというのを映画で見て、じゃあやるからにはいつか(パラリンピックの舞台に)立ちたいと。
深山 いつかは立ちたいと言いましたが、それをすぐに達成しました。
佐藤 2004年(のアテネパラリンピック)ですから(走り幅跳びを始めて)1年半ぐらいでした。まだ本当にひとり赤ちゃんがいたようなレベルだったんですけれど、世界の標準記録を突破できて。でもトップは5メートルを跳んでいましたからね。(記録は)3メートル95という当時の自分には精いっぱいの自己ベストだったんですけれど、すごく世界を感じました。でも、この舞台に立てたことで私の第2の人生が開かれました。これがなかったら2回目も3回目もその後の(東京五輪・パラリンピックの)招致活動などもないかなと思います。すごく刺激を受けて帰ってきました。
深山 そしてアテネの次は北京です。
佐藤 この大会どちらかと言うと、4年間かけて出場する難しさを感じた大会でした。アテネの時は知らないうちに世界の舞台にいたという感じでしたが、北京は4年間で強くなって戦いに行くんだという気持ちで、自分にプレッシャーをかけてしまいました。一方で仕事との両立がうまくいかなかったり、ケガをしたりということで苦戦した4年間でした。
深山 だけど、いろんな意味で反省も踏まえてロンドンに挑戦しました。
佐藤 もう一度チャレンジするのかということを考えた上で、「もう一回やってみよう」と思って、体をまず鍛え直そうと。後は4年間あるから踏切足を変えてみることにしました。
深山 踏切足を左右変えるということは、それまで健足側で跳んでいたのを義足のほうに変えるということですね。
佐藤 全然簡単なことではなくて、もちろん記録は落ちる一方でしたけれど、世界トップの潮流は義足踏切になっていたので。自分の脚で跳びたかったですし、正直自分の軸足が左だったので、左で跳びたいという気持ちはありました。でも、これをやらずに走り幅跳びをやめていいのかと思うと、やっぱり可能性があるのはもったいない、ダメだったら元に戻せばいいと思って。
深山 要するに強化とチャレンジですよね。義足で踏み切る練習をしていって、ロンドンを迎えたと。この時の感想は後で詳しく聞こうと思います。