震災20年目の競馬 乗峯栄一の「競馬巴投げ!第90回」

乗峯栄一

ビワハヤヒデ引退式の翌未明

[写真1]阪神淡路大震災から丸20年、阪神競馬場は瓦礫の山だった 【写真:乗峯栄一】

 阪神淡路大震災から丸20年になる。

 1995年1月16日に京都競馬場でビワハヤヒデ引退式があり、ハヤヒデファン仲間の打ち上げ会もあって、そのあとハヤヒデの濱田厩舎で長く勤めた小林常浩調教助手(現ライター)と矢作芳人調教助手(昨年全国リーディングとなった現調教師)が大阪豊中のうちに泊まり、「明日は厩舎全休日だから尼崎ボートに行くぞ。オーイ札束入れる袋用意してくれ」とかいつものように酒とカネ勘定に酔って寝ていた未明、激震に飛び上がる。

 ぼくももちろん目が覚めたし、隣の部屋で寝ていた小林、矢作両氏もモゾモゾと這いだして来て「テレビつけてみ」などと言う。

 情報は混乱していた。NHK臨時ニュースでも大阪が震度4で、京都、滋賀が震度5などと出ている。「こりゃ震源は滋賀か、トレセンやばいのか」などと話して電話してみると(この時点では電話はけっこう通じた)栗東近辺はそれほどでもないということだ。

「震源はどこや?」などと話しているうちに「神戸震度6」という表示が出る。「神戸震度6? いくら何でも間違いやろ。でもアクシデントということもあるかもしれんから、尼崎ボートには早めに出発した方がええぞ。地震のあとは波が高いから、やっぱりインが有利か?」などと言い合っていたが、そのうち神戸近辺の映像が出始める。

「尼崎競艇のスタンドが倒壊しています」などと言われる。「うん? スタンドが倒壊? ならボートは中止か?」などと、まだ呑気なことを言っていると「JR六甲道駅がつぶれてます」と大声のレポートも入る。

「え! 六甲道駅? 姉の主人の勤めてる駅や。駅は24時間勤務らしいから、これはえらいコッチャ、ボートやめとこか? 待ち合わせしてる伊丹のマッちゃんに電話するわ」と受話器を取るが、もうそのころには電話はどこにもつながらなくなっていた。そこへ「阪急伊丹駅もつぶれてます」とレポートが入る。「え、マッちゃんの家、駅のすぐ横や」などと言い、だんだんみんな声がなくなり、赤線引きまくった尼崎ボートの新聞をそっとフトンの下に押し込んだ。(幸い、姉一家も友人マッちゃんも無事だったが)

オッサン、尻さわってんじゃねえよ!

[写真2]崩れ落ちた阪神競馬場駐車場 【写真:乗峯栄一】

 いや、でも、十分伝えられている震災の悲惨さとは全然別なところで、個人的に印象深いことがあったので、今日はそれを書く。

 神戸灘区に住む姉の家が半壊したので、荷物を背負って西宮北口から歩いた(大阪から阪急西宮北口までは割合早く復興した)。西宮から神戸というのは大した距離ではないと思っていたが、実際歩いてみるとかなりのものだ。国道2号線沿いを行ったが、約2時間かかった。物資運搬の車で道路は大渋滞しているし、ビルや民家が倒れてあちこちで歩道をふさいでいるし、けたたましいサイレンを鳴らして消防車や救急車が渋滞車両の列の隙間を抜けていくし、「平和の国ニッポン」にもこういう情景があり得るんだと変な感慨を受けながら歩く。

 しかし心に残る出来事は、その姉の家からの帰りに起こった。帰りは鉄道の代替バスに乗ったが、これが予想通り渋滞でノロノロとしか動かない。結局西宮北口まで、歩くのと同じぐらい時間がかかった。満員の乗客はイライラしていた。

 その途中、停留所で二十歳そこそこの女の子が「オッサン、尻さわってんじゃねえよ!」と大声を出して降りる。満員の乗客の視線は一斉にその残ったオッサンに注がれる。

 オッサンは一瞬ドギマギするが、「この非常時に何言うてんねん、なあ」と逆に周囲の客に同調を求める。

 しかし非常時に女の子の尻さわるやつの方がよっぽどフトドキだろう。乗客の冷たい視線に耐えきれず、オッサンも次の停留所で降りた。

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著者プロフィール

 1955年岡山県生まれ。文筆業。92年「奈良林さんのアドバイス」で「小説新潮」新人賞佳作受賞。98年「なにわ忠臣蔵伝説」で朝日新人文学賞受賞。92年より大阪スポニチで競馬コラム連載中で、そのせいで折あらば栗東トレセンに出向いている。著書に「なにわ忠臣蔵伝説」(朝日出版社)「いつかバラの花咲く馬券を」(アールズ出版)等。ブログ「乗峯栄一のトレセン・リポート」

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