「知られざる海外日本人」瀬戸貴幸の冒険 スーパーのアルバイトからEL出場へ

宇都宮徹壱

アストラの瀬戸貴幸とは何者か?

ルーマニア1部リーグのアストラで中心選手として活躍する瀬戸 【宇都宮徹壱】

 UEFAチャンピオンズリーグ(CL)と並ぶ欧州2大タイトルのひとつ、UEFAヨーロッパカップ(EL)。今季のEL本戦には5人の日本人選手が参戦している。すなわち、長友佑都(インテル)、川島永嗣、小野裕二(いずれもスタンダール・リエージュ)、久保裕也(ヤング・ボーイズ)、そして瀬戸貴幸(FCアストラ・ジュルジュ)である。瀬戸って誰? アストラってどこのクラブ? そう疑問に思われる方も少なくないだろう。アストラはルーマニアのクラブで、昨シーズンの国内カップに優勝し、さらに今季のELプレーオフでフランスのリヨンを破ってEL本戦初出場を決めた。では、瀬戸貴幸とは何者か? それが本稿のテーマである。

 10月22日、スコットランドはグラスゴーのセルティックパークにて、セルティック対アストラによるEL第3節が行われた。この試合で瀬戸は、定位置のボランチではなくトップ下としてスタメン出場(当人いわく「攻撃の選手が足りなかったため」とのこと)。前半23分にはゴール前で決定的なチャンスを迎えるも、ファーサイドを狙ったシュートはあえなく枠を外れた。瀬戸は後半33分にベンチに退き、試合は1−2で敗れている。戦力差以上に、ヨーロッパでの経験値の差がそのままスコアに現れる試合内容。試合後、瀬戸は自身のプレーについてこう振り返っている。

「いつもと違うポジションでしたが、監督(元ガンバ大阪のオレグ・プロタソフ)の要求したことはできたと思います。守備では失点するまではしっかり守れていたので、そこはよかった。反省点は、チャンスの場面でフィニッシュの精度に欠けたこと。23分のチャンスについては狙いすぎました。相手DFが中に飛び込んでくると思ったので、ファーサイドを狙ったんですけど、思いっきり打ってたら案外入ったかもしれませんね」

 ところで対戦相手のセルティックといえば、日本のサッカーファンにとっては元日本代表の中村俊輔(横浜F・マリノス)がプレーしたクラブという印象が強い。セルティックがリーグとカップの2冠を達成し、中村自身もリーグMVPをはじめ4つの個人タイトルを総なめにしたのが2007年のこと。では当時21歳だった瀬戸は、その頃どうしていたのだろうか。

「地元(名古屋)の大型スーパーで、お酒を売るアルバイトをしながら、市のリーグで高校の先輩たちとボールを蹴っていました。高校を出て、ブラジルのサッカー留学から帰ってきてもプロから声がかからなくて。周囲からは『もう諦めたら?』とか『いいかげん就職したら?』とか言われて、自分でもちょっとグラついていた時期でしたね」

無駄ではなかったブラジル留学

 瀬戸は1986年2月5日生まれの名古屋出身。同学年の日本代表を挙げると、豊田陽平(サガン鳥栖)、伊野波雅彦(ジュビロ磐田)、水本裕貴、青山敏弘(いずれもサンフレッチェ広島)あたりが思い浮かぶ。しかし瀬戸の場合、これら有名選手と比べると、育成年代においてまったくの無名であった。出身の県立熱田高等学校は、当人いわく「公立では強い方でしたけれど、僕の代では最高で県のベスト4でしたね」。ゆえにJクラブのスカウト網にひっかかることもなく、瀬戸は独力でプロフットボーラーとなる道を模索しなければならなかった。そこで選んだのが、ブラジルへのサッカー留学である。

「ちょうどそのころ、サッカーをやっていた兄がブラジルに行っていたので、『それなら僕もブラジルへ』という感じで、高校卒業してすぐに行きました。最初はサンタカタリーナ州のアバイFCというチーム。それからコリンチャンスにも練習参加していました」

 結局、1年半の留学で受け入れてくれるクラブは見つからず、05年に帰国。昼はアルバイト、夜は公園でひたすらミニゲームを続けながらチャンスを待つ日々が続いた。だが、いくらブラジル留学を経験したとはいえ、日本でまったく実績のない瀬戸に声をかけるJクラブは(さらに言えばJFLクラブや地域リーグのクラブも)皆無であった。当人の気持ちがグラつくのも無理もない。そんなある日、兄のつてで「ルーマニアの3部クラブでテストが受けられる」という話が舞い込む。それがアストラであった。当時、ルーマニアがどこにあって、どんな国なのか、まったく知らなかった。それでも瀬戸は迷うことなく、07年の夏に未知の国へと旅立っていく。新たな冒険の始まりであった。

 結論から言えば、瀬戸の18歳でのブラジル留学は無駄ではなかった。むしろ彼が、ルーマニアで成功する礎(いしずえ)になったとさえ言えよう。理由は3つ。まず、海外の生活に順応し、かつポジションを獲得する大変さを学べたこと。次に、自分の足元の技術なら「そこそこやれる」という自信がついたこと。それからもうひとつ、基本的なポルトガル語を習得できたことである。ルーマニア語は、東欧諸国では珍しいラテン語の流れをくむ言語であり、ポルトガル語からの応用は比較的容易であった。

「(ルーマニアに来て)最初のころは2〜3時間勉強していました。言葉はやっぱり重要だと思います。英語がしゃべれるから勉強しないというのではなく、やっぱりその国に来たら、その国の言葉をマスターするというのは意識していましたね。僕はポルトガル語を知っていたので、半年くらいでだいたい話せるようになりました」

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)

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