素質、性格、環境がそろい開花した才能 「錦織圭――頂上への序章」前編

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父に連れられて始めたテニス

全米オープンテニスで準優勝の快挙を達成した錦織の足跡をたどる 【写真:Action Images/アフロ】

 8月の全米オープンテニスで、日本人として史上初めて、男子選手としてはアジアで初めて、グランドスラムのシングルス決勝に勝ち進んだ錦織圭(日清食品)。1989年暮れ、島根県松江市で生まれた錦織がテニスを始めたのは5歳のころで、父親の清志さんに連れられ、姉と一緒に近くの公園でボールを打ち始めた。清志さんは地元の大学のテニス同好会でプレーしたスポーツマン。会の名前は「ダブルフォルツ」だったとか。
 やがて錦織は、地元のテニスクラブに通うようになる。地方でのテニスとの出会い、まずここに錦織の原点がある。日本のテニスの伝統という土壌の上に、一粒の種が芽を出していくのだ。

 その芽がつぼみとなり花開いたのは、11歳だった2001年。全国選抜ジュニア、全国小学生選手権、全日本ジュニア12歳以下の3冠を達成する。松岡修造氏主宰の「修造チャレンジ」参加など中央で研さんする中で、日本テニス協会・盛田正明前会長主宰のジュニア育成機関「盛田ファンド」の支援が決まった。テニス愛好家の盛田氏は、以前からIMGの創始者マイク・マコーマックと交流があり、00年に「盛田ファンド」を開設すると、米国・フロリダ州にあるIMGアカデミーに有望なジュニア選手を派遣してきた。

 IMGアカデミーはもともとニック・ボロテリーが開設したもので、アンドレ・アガシ(米国)やマリア・シャラポワ(ロシア)など多くのトッププロを世に送り出してきた。ボロテリーは選手の素質を見抜く目利きコーチで、世界から集まるジュニアの中で特に有望な選手には別メニューでエリート指導を施す。03年9月、13歳で渡米した錦織も初めからそのグループでトップ選手と接しながら、素質を伸ばしてきた。そして18歳だった08年、デルレイビーチでツアー初優勝。日本男子のATPツアー制覇は、前述の松岡氏に続く史上2人目の快挙だった。

米国生活もホームシックなし

 日本選手が海外で必ずしも成果を残せないのは、言葉や食事など文化の違いからくるホームシックが多い。錦織は米国生活をこう振り返っている。

「米国に来て毎日、テニスができるのがうれしくて仕方がなかった。両親には申し訳ないくらい、ホームシックはなかったですね」

 両親によれば、細かなことを気にしない大ざっぱな性格の子供だったそうだ。部屋も散らかっている方が落ち着くらしく、片付けられるのを嫌がる……。日本国内の学校体育の勝敗主義の流れに乗っていたら、素質は伸び伸びと開花しただろうか。

 先の全米オープン準優勝後には、こんなことを話している。

「決勝を一番見てもらいたかったのは盛田さんです。優勝を見てもらうため、きょうは負けました」

 恩人である盛田氏は、所用のため全米オープンには来られなかった。錦織は決勝戦のあと、感謝の言葉を口にして笑った。素質、性格、環境――三位一体となって、世界は広がったのだ。

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