越川優が探求する「日本代表で戦う意味」 勝利を使命づけられた3度目のアジア大会

田中夕子

初めて日の丸をつけた釜山大会

越川優が自身3度目となるアジア大会に懸ける思いとは!? 【写真:アフロスポーツ】

 忘れられない大会があるとしたら、間違いなくその1つがアジア大会だ。
 12年前の2002年、韓国・釜山。それは、18歳だった越川優(JT)にとって、初めて日の丸を胸につけて臨んだ国際大会だった。

「自分に何ができるかなんて分からないし、周りはすごい人ばかり。だけど、絶対にサーブだけはこの中で自分が一番になってやると思っていたし、絶対に越川じゃなきゃダメだと思われるものを少しでも作りたかった。全日本っていうのは、そういう場所だと思ってきました」

 全日本代表として戦う意味。越川は、常に正面からその答えを探すために向き合い、挑み続けてきた。

Vリーグでは1年目から活躍

 初めてのアジア大会を経験した直後、長野・岡谷工業高を卒業した越川は、サントリーサンバーズに入団。高校で活躍する男子選手の多くが、関東や関西の強豪大学に進学する中、あえて高卒でVリーグの門をたたいたのには理由があった。

「同世代にはすごい選手たちがいっぱいいました。その選手たちに勝つために、自分も同じように大学へ進んで、同じ大会に出ているだけではダメ。少しでも違うこと、厳しい環境に身を置いて、同級生たちが大学を卒業してVリーグに入ってきた時には、一歩先にいたいと思ったんです」

 1年目から出場チャンスをつかみ、レギュラーに定着。サーブと強烈なスパイクを武器に、サントリーでも全日本でも欠かせぬ存在へと成長した。入団から4シーズン目を迎えた07年にはチームを優勝に導き、MVPに輝いた。

 08年には16年ぶりに男子バレー全日本代表として北京五輪に出場したが、結果は5戦5敗で予選リーグ敗退。それまで経験してきた国際大会と、五輪は全く別の場所であると思い知らされた。

 4年後のロンドン五輪では同じ轍を踏まぬように。自らのスキルアップ、レベルアップのためにと、翌年の09年にはイタリア・セリエAのパドヴァへ移籍し、3シーズンを過ごした。しかし、周囲との衝突も恐れず、言うべきことは言う越川の姿勢や行動は時に、軋轢(あつれき)を生んだ。11年に開催されたワールドカップ、翌年の世界最終予選ではメンバーに選出されぬまま、ロンドン五輪への挑戦が幕を閉じた。

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著者プロフィール

神奈川県生まれ。神奈川新聞運動部でのアルバイトを経て、『月刊トレーニングジャーナル』編集部勤務。2004年にフリーとなり、バレーボール、水泳、フェンシング、レスリングなど五輪競技を取材。著書に『高校バレーは頭脳が9割』(日本文化出版)。共著に『海と、がれきと、ボールと、絆』(講談社)、『青春サプリ』(ポプラ社)。『SAORI』(日本文化出版)、『夢を泳ぐ』(徳間書店)、『絆があれば何度でもやり直せる』(カンゼン)など女子アスリートの著書や、前橋育英高校硬式野球部の荒井直樹監督が記した『当たり前の積み重ねが本物になる』『凡事徹底 前橋育英高校野球部で教え続けていること』(カンゼン)などで構成を担当

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