マラソン10年で始まったアスリート人生 遅咲き早川英里、初のアジア大会へ

折山淑美

自身初の日本代表に選出

アジア大会で自身初の日本代表に選ばれた早川。現在32歳の遅咲きランナーだ 【写真は共同】

 3月の名古屋ウィメンズマラソンで、木崎良子(ダイハツ)に次ぐ日本人2番手の4位になった早川英里(TOTO)。30キロからは外国勢に離されながらも木崎、田中智美(第一生命)との日本人トップ争いを演じ、33キロからはその集団を引っ張る積極的な走りを見せて2時間25分31秒の自己新でゴールした。

 その成績が認められて、アジア大会(19日開幕、韓国・仁川)代表に。7月からは約1カ月間のスイス・サンモリッツ合宿も行い、10月2日の本番に備えている。

「初めての日本代表というのもあるけれど、この間の名古屋ウィメンズでは日本人選手に負けたというのもあるので、次の試合に向けて『もっと自分が強くならなければ』という思いでやっています。外国人選手にもついていかなければいけないとすごく感じたので、今はとにかく何かの課題というよりも、全体的なベースの強化が一番大切だと考えています」

“卒業旅行気分”の初マラソンで4位

“市民ランナーの代表”という立ち位置に苦しんだ早川だが、逆に今の方が開き直って走れると笑顔を見せる 【スポーツナビ】

 こう話す早川のマラソン歴は長い。成蹊大3年だった2002年12月にホノルルマラソンに出場して2時間32分42秒で4位になり、翌年は2時間31分57秒で優勝。卒業後は市民向けランニングチームやランナー用総合施設を運営するアチーブメントに入社し、谷川真理も所属するアミノバイタルACで競技を続けた。さらに、04年ホノルルマラソンでは2時間28分11秒に自己記録を伸ばした。

「高校、大学と陸上は趣味として800メートルと1500メートルをやっていたんです。自分で頑張って結果を出して前の自分を超えていく過程が好きなので、環境が違ったら他の競技やスポーツ以外のものをやっていたかもしれませんね」

 大学3年で初マラソンに挑戦したのも、卒業旅行気分でホノルルへ行くような軽い気持ちだった。だが、聞いていたような35キロの壁もなくすんなり完走。「これは自分に向いているのかも。コツコツ自己ベストを更新していけば、その先に何かが見えるかもしれない」と思い、マラソンを続けることにした。

 だが、当時は高橋尚子や渋井陽子(三井住友海上)、野口みずき(シスメックス)などがいた日本女子マラソンの絶頂期。トップとの差は大きかった。
「実業団の厳しい環境の中で練習していくことは自分にはできないだろうと思ったし、正直、自分自身も2時間30分を切りたいとか自己ベストを出したいという思いはありましたが、日本代表になりたいというような目標は持ちづらかったですね。ただ、2時間25分くらいまでは考えて練習をしていました」と苦笑する。

 社会人になった04年に2時間28分台の自己ベストを出し、翌年10月のシカゴマラソンでも2時間28分50秒で走れた。だが、そこからは記録もなかなか伸びなかった。
「会社の方針が『12月にあるホノルルマラソンには毎年出る』というものだったので、それに合わせると国内のレースにはあまり出られなくて。それに、会社関係のイベントでもハーフマラソンなどに招待選手として出なければいけなかったので、時期が合わなかったりしたのもあって……。国内のレースは海外のレースと違って、独特な雰囲気もあったからハードルが高かったですね。私自身、精神的に負けている部分もあったと思います」

 その頃の早川の立ち位置は、“市民ランナーの代表”とも言えるものだった。そのため、イベントに招待選手として出ても、他のランナーには負けられないという気持ちの方が強く、精神的にも苦しかったという。逆に今の方が、挑戦者という気持ちで臨めるので、開き直って走れていると、早川は微笑む。

転機となったコーチとの出会い

 そんな早川が元トライアスロン選手の山本光宏コーチと出会ったのは11年だった。会社のランニングスクールの会員が彼に加圧トレーニングの指導を受けていた関係で、「故障して走れないので見てほしい」と山本を訪ねたのだ。

 山本は振り返る。
「もともと競技力があるのに走れないというのならその理由があるので、いろいろとモニタリングをしたり、走りの姿勢を見て動きやウエートトレーニングの指導をしました。けがの影響からか、走りでも本来ならきちんと動いていなければいけない筋肉がしっかり機能していなかったり、60歳の人でも普通にできることができないというのもありました。自分が追い込んだ練習をしているつもりになっていても、心拍計を付けると、心拍数は思っているほどには上がっていませんでした。そういうことをひとつひとつ、克服していった感じです」

 走れなくなった原因である脇腹から下腹部にかけての痛みもひどいころは、一度いすに座ると痛みで立てないほどだった。速く走るために一部の筋肉が過度に働きすぎたため、限界を超えてしまったからだと山本は言う。それもあって、自分が追い込んだ練習をしたつもりになっていても、けがによる痛みをかばうあまり、まったく追い込めていなかったのだ。

 そんな状態が少しずつだが改善され、同年11月には横浜国際女子マラソンを走ることができた。だが、その時はちょうど30歳を迎えたばかり。これから先に自分が何をできるか考えると、漠然と「陸上関係なのかな?」と思ったという。それなら中途半端に続けるのではなく、1年間だけ、痛みが少なくなった体でマラソンに集中して区切りをつけたいと考えた。そして、自分自身を追い込むためにもと、12年1月末に会社を辞めた。

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著者プロフィール

1953年1月26日長野県生まれ。神奈川大学工学部卒業後、『週刊プレイボーイ』『月刊プレイボーイ』『Number』『Sportiva』ほかで活躍中の「アマチュアスポーツ」専門ライター。著書『誰よりも遠くへ―原田雅彦と男達の熱き闘い―』(集英社)『高橋尚子 金メダルへの絆』(構成/日本文芸社)『船木和喜をK点まで運んだ3つの風』(学習研究社)『眠らないウサギ―井上康生の柔道一直線!』(創美社)『末続慎吾×高野進--栄光への助走 日本人でも世界と戦える! 』(集英社)『泳げ!北島ッ 金メダルまでの軌跡』(太田出版)ほか多数。

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