捕手の矜持を貫いた里崎智也の野球人生、満身創痍の体……決断した現役引退
無名だったアマチュア時代
05年にはチーム31年ぶりの日本一の立役者になったが、里崎本人は「レギュラーになったのは06年から」と語る 【写真=高塩隆】
プロ野球界に飛び込んだ選手のほとんどは、野球を始めて間もないころから、漠然とプロを意識していたことだろう。だが、里崎がプロを意識したのは意外だが、大学時代と決して早くはない。それもそのはず。鳴門工高時代の公式戦の本塁打は「0」で、全国的にはまったくの無名の存在だった。
「そりゃ、そうですよ。高校は本当に弱かったから。練習試合では何本も(本塁打を)打っていたけれど、公式戦は1回戦か2回戦で負けてばかり。甲子園に行くような学校とは、公式戦の試合数が全然違っていた」
高校の監督から「野球を続けるのならば、大学は関東へ行った方が良い」とのアドバイスで、首都大学リーグの帝京大へ。入学後も後にチームメートになる日本体育大の小林雅英(現オリックス2軍投手コーチ)の球を見て、「プロに行くのはこういう人たちなんだろうな」と、自身のプロ入りは現実味がなかったという。
それでも地道な努力が実り、才能が開花。4試合連続本塁打を放つなど実力をつけるとプロのスカウトから注目されるようになった。「僕自身の思いよりも、周囲が(プロと)言い始めた」。1998年ドラフトの逆指名制度を使い、2位でロッテに入団を果たした。
名実ともにロッテの顔になった06年
06年の第1回WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)の日本代表を率いた王貞治監督は正捕手に里崎を指名。本大会では7試合で先発マスクを任されるなど、全8試合に出場し、4割以上の打率をマーク。ベストナインを獲得すると、その明るいキャラクターもあり、一躍スターの座に駆け上がった。
WBCでの勢いはシーズンに入っても衰えなかった。116試合に出場し、球団の捕手としては袴田英利(現西武コーチ)以来となる規定打席に到達。「打率(2割6分4厘)は大したことないけど、球団の歴史に名前が残るのはうれしい」と名実ともにロッテの顔になったことを喜んだ。