強化の足かせだった「アジアのカレンダー」=ザックジャパンの4年間 第2回・強化編

飯尾篤史
 6月12日(現地時間。以下同)に始まったワールドカップ(W杯)ブラジル大会もいよいよ佳境。決勝のカードはドイツ対アルゼンチンの対決と決まった。

 今回スポーツナビでは、ザッケローニ監督と歩んできた日本代表の4年間を振り返り、ザックが日本にもたらしたものは何だったのかを論じる。第2回のテーマは日本代表の「強化」について。
 2011年のアジアカップ優勝、その後はW杯アジア3次予選、最終予選を戦い抜き、開催国を除く国としては世界最速の本大会出場を決めた。一方、震災の影響でコパ・アメリカを不参加、昨年のコンフェデレーションズカップ(コンフェデ杯)では3戦全敗と、列強国に勝利する経験が少ないまま、本大会を迎えた。その強化の過程が、どのように影響したかを振り返ってみる。

世界の列強と戦う機会がなかった

ザックジャパンの4年間は「アジアのカレンダー」に苦しめられた。世界最速でW杯出場を決めたが、その後の時間でW杯仕様に作り上げるのは厳しかった 【Getty Images】

「強化」という点に絞って4年間を振り返ると、ザックジャパンは「アジア」に苦しめられたという印象だ。

 ここで言う「アジア」とは、オーストラリアやヨルダン、ウズベキスタンといったひと癖ある対戦相手のことでも、移動距離や酷暑、高温多湿の気候といったアジア予選特有のハンデのことでもない。独特な「アジアのカレンダー」のことだ。

 ザックジャパンの4年間の歩みをおおまかにたどると、アジアカップ→W杯アジア3次予選→W杯アジア最終予選→コンフェデ杯→東アジアカップ→ブラジルW杯、という流れになる。

 10年10月、アルゼンチンとの初陣からわずか3カ月後に迎えた11年1月のアジアカップで優勝し、9月から始まった3次予選は、2試合を残して突破を決めた。12年6月にスタートした最終予選は、2位以下を大きく引き離して出場権を獲得。世界の強豪と邂逅(かいこう)した13年6月のコンフェデ杯は3戦全敗に終わり、7月の東アジアカップで改めて新戦力を発掘。東欧遠征、欧州遠征、米国での直前合宿を経て、ブラジルW杯に臨んだ。

コンフェデ杯前までの海外強化試合はわずか4試合

 米国での直前合宿では、コスタリカ、ザンビアとの親善試合を戦った。4年前の南アフリカ大会直前にはイングランドとコートジボワールの胸を借り、ベスト16という結果を残したため、今回も強豪国と戦うべきだったのではないかという見方もあるが、それは結果論だろう。

 たとえば、8年前のドイツ大会直前には開催国のドイツと戦っているが、本大会は1分2敗の惨敗だった。コスタリカは今回、日本と強化試合を組んだが、ベスト8に進出している。それに、コスタリカも十分、強豪国だと言える。

 やはり、強化においては、それまでの4年間に目を向けるべきで、その点で大いに足かせとなったのが、「アジアのカレンダー」だった。

 W杯のわずか半年後にアジアカップが開催されることになったのは3年前が初めてのこと。それから最終予選が終わる13年6月までの約3年間、アジア勢との予選が続き、ようやく世界の強豪と戦う機会を得たのはコンフェデ杯から。その時点でW杯まで残り1年しかなかった。

 ザックジャパンは、南アフリカW杯の岡田ジャパンや、ロンドン五輪の関塚ジャパンのように「対アジア」と「対世界」で戦い方を変えるのではなく、アジア予選を戦っている最中から「強豪に対しても攻撃的に戦う」ことを目標に掲げ、世界との戦いを意識したチーム作りを進めてきた。

 しかし、コンフェデ杯までの3年間は、国際Aマッチデーがアジア予選で埋まっていることが多く、その間、海外で強化試合が組めたのは、10年10月の韓国戦、12年10月のフランス戦、ブラジル戦、13年3月のカナダ戦のわずか4試合だけしかない。これは明らかに「アジアのカレンダー」による弊害だった。

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著者プロフィール

東京都生まれ。明治大学を卒業後、編集プロダクションを経て、日本スポーツ企画出版社に入社し、「週刊サッカーダイジェスト」編集部に配属。2012年からフリーランスに転身し、国内外のサッカーシーンを取材する。著書に『黄金の1年 一流Jリーガー19人が明かす分岐点』(ソル・メディア)、『残心 Jリーガー中村憲剛の挑戦と挫折の1700日』(講談社)、構成として岡崎慎司『未到 奇跡の一年』(KKベストセラーズ)などがある。

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